今朝はイエス様とサマリヤの女性との出会いと会話の続きの場面です。サマリヤの少し南にエバル山とゲリジム山があります。標高940メートルと881メートルの山々です。宝満山が標高830メートルですから、それらの山々を見上げる谷合いで会話する二人を想像してみましょう。20節では「この山」とありますが、ゲリジム山にはエルサレムのシオンの丘の神殿に対抗するサマリヤ人たち独自の神殿跡が望めたことでしょう。
1.礼拝場所への拘り
私たち人間は体をもって「空間」の中に生きている限り、神を共に礼拝する「場所」を持つことになります。場所についてはそれぞれの選びがあって良いのでしょう。私たちは東福岡、馬出のこの場所で信仰の仲間たちと共に礼拝することを選び取っています。礼拝場所は大切ではありますが、自分たちやその先祖たちが選んだその場所を絶対視して、それに固執するといろいろ問題が起こります。同じ場所に違う宗教・文化の人々が生活する場合は争いが起こります。日本でもイスラム教のモスクが建てられた時は近所の人たちとの間には葛藤があったようです。伝統的な寺社仏閣の多い京都(荒神口)にモスクが建てられることを受け入れた京都人は懐が深いです。主イエスは21節で言われます。「あなたがたが、この(ゲリジム)山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。」これは画期的な言葉、人間を解放する言葉です。人はこの言葉によって、場所の拘りから自由になり、霊と真理を持って神を礼拝することができます。現在、イスラエルとガザ地区のハマス、ハマスを支援するレバノンのヒズボラや其の他のイスラム勢力との間の戦争が続いています。イスラエル人とパレスチナ人の間、ユダヤ教とイスラム教の間、またイスラム教でもシーア派とスンニ派の間はこんがらがった糸のように、複雑な歴史があります。現代的問題の原因は、アラブ人が住んでいたパレスチナと呼ばれる土地に、1948年5月国際連合がパレスチナ分割決議にしたがってユダヤ人たちの移民を促したことに始まります。もとよりこの地域は民族や部族によって複雑な軋轢がありましたが、元を糺せば、エルサレムとパレスチナを中心にした「場所」に拘る神礼拝が原因していると考えることができます。ナチス・ドイツは600万人以上のユダヤ人を殺し、また、植民地の関係上イギリスも噛んでいて、アラブ人が住んでいる土地にユダヤ人の流入を欧米諸国が許したわけです。欧州のキリスト教徒たちは、自分たちには、ユダヤ人虐殺に対する贖罪の感情があり、その想いをパレスチナのアラブ人を犠牲にして晴らそうとした訳です。「この山(サマリヤのゲリジム山)でもエルサレムでもない所で、父なる神を礼拝する時が来る、来ている」という主イエスの生き方に耳を傾ける(ヨハネ4:21)ことができれば、人はそれぞれ自由に自分の信じる神を礼拝し、あるいは自由に信じる場所で「平和共存」できるはずです。平和共存をもたらすはずの宗教がかえって葛藤を生み出していることは極めて問題です。このような呻き、祈りをもって共に礼拝しましょう。実際は、エルサレムにはキリスト教の聖墳墓教会、ユダヤ教の「嘆きの壁」そしてモスクが平和共存しています。「エルサレムでもない」というこの言葉を受け入れさえしたら、さらに自由になるはずです。この言葉に解決の手掛かりがあると信じます。私にはスイス留学時代に一緒に学んだ「ザヒ」という友人がいましたが、彼はナザレの出身のアラブ人で、キリスト者、バプテストでした。それぞれ違った伝統に生きるとしても「平和共存」は成り立つし、そのように生きなければなりません。今朝はまず、「あなたがたが、このゲリジム山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。」特に「エルサレムでもない」と言われた主イエスの言葉のパワーに注目しましょう。このことさえ受け入れるなら特別な場所から自由になれるし、もし場所に拘るならば、相手を「殲滅」するのではなく、平和共存の道があるのです。
2.救いはユダヤ人から来る 主イエスの拘り
では、ヨハネ福音書の教えを更に見てみましょう。礼拝の場所に拘らないイエス様は、「救いはユダヤ人たちから来る」(22節b)と言われます。特別な歴史への拘りです。ヨハネ福音書では通常「ユダヤ人」は、主イエスに敵対し、イエスを信じない者たちとして登場します。しかし、ここでは「救いはユダヤ人たちから来る」と言われていますので、この部分は、後の時代の編集者が付け加えたのであると考える学者もいるようです。けれども私たちが拘るのはイエス様というお方であり、主イエスはヘブライ語聖書の伝統による礼拝を「知っておられる」(ho oidamen)だけではなく、「ユダヤ人」であったということです。ユダヤ人たちの中からユダヤ人であるイエスを通して「救い」(hē sōtēria)がくるのです。神の選びの計画として、「救い」はヘブライ語聖書の2000年の伝統の中から起こります。キリスト教の歴史においては、キリスト教会と教会を構成するキリスト教市民たちはユダヤ人(ユダヤ教徒)を迫害してきました。ユダヤ人たちがイエスを殺したからという理由です。先ほど触れたように、ヒトラーのナチ政権は600万人のユダヤ人を虐殺したと言われます。私もポーランド南部のアウシュヴィッツ(オフィティエンティム)やビルケナウの強制収容所を訪問したことがあります。ヒトラーが「人種」というものを持ち込み、ドイツ人の「血」などと言い出した時、ドイツ人デートリッヒ・ボンフェッハーはユダヤ人虐殺の危険をいち早く察知しました。彼は、「イエスはユダヤ人であった」「救いはユダヤ人から来る」という言葉で、ヒトラーと当時のドイツ的キリスト者に対決しました。ユダヤ人を排除するヒトラーは、「救いはアーリア人、ドイツ人から来る」と唱えたと言ってよいでしょう。「救いはユダヤ人たちから来る」という言葉は、ナチスの抑圧と闘う人たちの合言葉となったのでした。確かに、エルサレムという場所への拘りは問題を含んでいますが、イエス・キリストによって神の救いの働きは成就したこと、イエスはユダヤ人であったことへのこだわりを捨てることはできません。むろん、キリスト教信仰はユダヤ人の壁を超えて全世界に広がります。ユダヤ人であられたイエス様の人格、教え、働きはユダヤ民族を超えて広がるインパクトを持っていたのです。
3.霊と真実をもって(イエスの名によって)礼拝する
確かに人間は身体を持ち、ある空間の中で、また、歴史をもって生きていますので、礼拝の場所が必要でしょう。しかし、主イエスは宣言されます。「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理を持って父を礼拝する時が来る。今がその時である」(4:23)また、「神は霊である。だから、神を礼拝するものは、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(24節)と。
「霊」とは物質とは違って目に見えない生き生きとしたものを存在させている力です。神はどこかに物質(空間の中で「延長しているもの」)として存在してはいない「霊」であり、時間と空間の中に、しかし、「時間と空間」を超えています。霊の反対語は「肉」です。
また「真理」と翻訳された「alētheia」はギリシャ文化では「覆いを取り除いで知られるもの」です。しかし、ヘブライ語の伝統はもっとダイナミックで、「エメト」「アーメン」が対応しています。神の真理の呼び掛けに「アーメン」と応答することであって、わたしは、alētheiaに「真実」という日本語を当てたいと思います。「真実」は予め人間の中にあるものではなく、真実な神の愛の呼び掛けに「アーメン」と応答することから生れると言ってよいでしょう。
このように考えますと、「霊と真実による礼拝」とは、人間的に備わった霊と人間的な生れもって与えられる真実な心による礼拝ではありません。ヨハネの場合は、あくまで「肉は肉」なのです。霊と真実はその都度新たに与えられるものであり、「あなたと話をしているこのわたしである」(26節)と言われるお方から賜物としていただく礼拝が「霊と真実の礼拝」です。霊と真実による礼拝とは、霊と真実であられる「イエス・キリストの名」による礼拝です。礼拝においては、人間の内面から湧き出てくるものも大切でしょう。しかし、自分の内にある霊的なもの、真実なものは実は当てにならないもの、揺れ動くものではないでしょうか。私たちはどこまでも肉であり、不信実であり、虚偽に満ちているのではないでしょうか。ですから、霊と真実であるイエス様によってはじめて、霊と真実をもって行われる礼拝が可能になるのです。「あなたは自分でそう思っているにすぎない霊と真実で礼拝してはいないか」との厳しい問いかけがあります。しかし、霊と真実であるイエス様のみ名によって礼拝することができることは私たちに安らぎを与えてくれます。
4.偶像礼拝からの解放
このお方によってわたしたちは偶像礼拝や自分の名による自分礼拝の束縛から解放され、自由にされます。そして、その喜びから人を愛する力をいただけるのです。人間は神のかたち、似姿に造られています。ある「向き」をもって、心を傾けて、礼拝するように造られています。ですから、真の神を礼拝しない人は偶像礼拝者となります。この物語の女性は「5人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。」(4:18)と言われています。私は若い頃、この女性は何か「ふしだら」なのだろうと考えていましたが、今では彼女と出会った男性たちは何と「ダラシないのか」と思うようになりました。まあ、これはそれぞれの関係の事柄ですが、人が人に対してあたかも神のようなものを期待すれば、ないものねだりで、飢え渇き、愛情の対象を変えることになるのかも知れません。イエス様への女性の応答に対して、「ここでは、あなたはありのままを言ったわけだ」と言われています。「ありのまま」、「あなたはあなたのままでいい」という言葉が人を自由にする場面もあります。なにも、平均的、標準的人間になる必要などないからです。しかし、人は「ありのまま」では救われないのではないでしょうか。ここで「ありのまま」と翻訳された言葉も「alēthes」であって、あなたは「真実に」このことを語った」という意味です。イエス様から「愛」され、生かされていること、問題を抱えてもイエス様から愛されている、そのような「ありのまま」です。確かに、イエス様が言われるように、この女性は「知らないものを礼拝している」(4:22)人々の中に生きていて、飢え渇いていたのでしょう。私たちはあらゆる偶像礼拝や自己崇拝から自由にされねばなりません。しかし、すべてを知ってくださるイエス様にこの女性も「知られている」のです。言葉にならない「何か」「飢え渇き」をイエス様は知って下さっているのです。
5.預言者、メシア・キリストから神のみ子への信仰
主イエスは26節で、「それは、あなたと話をしているこのわたしである」と言われました。サマリヤの女性が「キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています」ということへの応答ですから、文脈からすれば、「わたしがそのキリストである」と言うことでしょう。ヨハネ1:40以下ではペトロの兄弟アンデレが「メシア=キリストに出会った」と告白しています。しかし、当時のキリスト告白はローマ帝国から武力を持ってイスラエルを解放する者への期待と重なり、弟子たちはいろいろな期待をこの称号に重ねていたのでした。みなさんはイエス様を何であり、何者であると言われるでしょうか?ここで、ギリシャ語をそのまま翻訳すると「あなたに話をしているのはわたしである」(Ego eimi, ho lalōn soi)となります。「わたしである」(I am)という表現はヘブライ語聖書では、神ご自身がご自身を知らせる時の慣用句です。イエス様ご自身が「わたしはあらゆる称号を超えたわたしである」また「あらゆる存在するものの根底にあってそれらを支えているものである」と言われ、「わたしである」というものであるということでしょう。ここが今日の説教の山場です。礼拝の場所を巡る問い方から出発し、イエス様はあらゆるタイトルを超えた「わたしはある」というものだと示されています。「婦人よ、わたしを信じなさい」といか言い様のないお方です。
この女性のキリスト告白に先だって、19節に「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。」とこの女性は言っています。終わりの日には預言者の預言者がこられるという期待もあったようですが、この女性の場合は、彼女の生活のあり方が何もかも見通されていたという意味で、何かを見通す力のある方というような感覚で「預言者」と言ったのでしょう。ヨハネ福音書20:31では「イエスは神の子メシア、キリストと信じて、イエスの名により命を受けること」(ヨハネ20:31)が、福音書が書かれた目的とされています。「預言者」そして「メシア=キリスト」さらに、「神の子」への信仰、ここでは、「わたしである」と言われるお方への信仰と深められていきます。「預言者」とか「キリスト」(油注がれた者)というタイトルでは表わすことのできないお方、神ご自身が姿を現しておられるということです。私たちの心の真実さや誠実な行動、たゆまぬ努力が神を現すというのではなく、神がご自身で神ご自身を現された、徹底的に恵みが先立つのです。この恵みへの応答から人間同士が愛し合う課題が与えられるのです。「わたしを信じなさい」と言われた主イエスを信じて、従い、真の礼拝者として生きましょう。