エバル山とゲリジム山の谷合でのイエス様とサマリヤの女性との礼拝を巡る対話です。
1.礼拝場所への拘り:私たちは身体をもって「空間」の中に生きている限り、神を共に礼拝する「場所」を持つことになります。礼拝場所は大切ですが、自分たちやその先祖たちが選んだ場所を絶対視し、それに固執すると問題が起こります。「ゲリジム山でもエルサレムでもない所で」礼拝するという主イエスの言葉は場所へのこだわりから私たちを解放します。現在のパレスチナ問題はまさに特定な場所から自由になれていない処から由来しています。
2.「救いはユダヤ人から来る」主イエスの拘り:しかし、「救いはユダヤ人たちから来る」と言われています。神の選びの計画として、「救い」はユダヤ人とヘブライ語聖書の伝統の中から起こります。ヒトラーがユダヤ人を排斥したとき、デートリッヒ・ボンフェッハーは彼らの救い主「イエスはユダヤ人であった」という言葉で、ヒトラーと当時のドイツ的キリスト者に対決しました。イエスはユダヤ人であるという意味で、「救いはユダヤ人たちから来る」には拘りたいです。
3.イエスの名によって霊と真実をもって礼拝する:「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理を持って父を礼拝する時が来る。今がその時である」(4:23)また、「神は霊である。だから、神を礼拝するものは、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(24節)と主イエスは言われます。これは、人間的に備わり、また、努力で何とかなる霊と真実な心による礼拝ではありません。霊と真実であられる「イエス・キリストの名」による礼拝です。
4.偶像礼拝からの解放:それゆえ、このお方によってわたしたちは偶像礼拝や自分の名による自己礼拝の束縛から解放され、自由にされます。人が人に対してあたかも神のようなものを期待すれば、ないものねだりで、飢え渇き、葛藤を生み、愛情の対象を変えるだけです。
5.預言者、メシア・キリストから肉体をもって到来した神の独り子への信仰;イエスは26節で、「それは、あなたと話をしているこのわたしである」と言われます。サマリヤの女性が「キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています」ということへの応答ですが、あなたと話をしているのはわたしである」(Ego eimi, ho lalōn soi)は神ご自身がご自身を知らせる時の慣用句です。イエス様は「わたしは預言者、メシアなどあらゆる称号を超えたわたしである」というか「あらゆる存在するものの根底にあってそれらを支えているものはわたしである」と言われているのです。主は「婦人よ、わたしを信じなさい」としか言い様のないお方です。(松見 俊)