1: イエスを受け入れない者
今日の箇所で、汚れた霊は、一度、人から出て行きました。しかし、休む場所がなかったため、元にいたところに戻ってきたのです。すると、その場所がきれいに整えられていたため、自分よりも悪いほかの7つの霊を連れて、元の場所に戻ってきて、そこに住み着いたのです。共観福音書とされる、マタイによる福音書にも、今日と同じような記事がありますが、そこでは「癒し」「悪霊からの解放」の後ではなく、イエス様が「しるし」について語った、その延長の記事として置かれています。マタイによる福音書と、今日の箇所は、同じ記事となりますが、二つはまた違った意味をもった言葉となっているのです。ルカはイエス様が悪霊を追い出したことに対して、人々が、【「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で追い出している」】(ルカ11:15)と言った後に、この記事を置いたのです。
このベルゼブル論争という話については、9月に学びましたが、1ヶ月ほど前になりますので、もう一度、少し学び直してみたいと思います。ルカ11章14節からの部分ですが、ここでイエス様は、口を利けなくする悪霊を追い出していました。そのため、それまで口の利けなかった者が、悪霊から解放され、話すことができるようになったのです。群衆はこのことに驚いたのですが、そのイエス様の悪霊を追い出すという業を見て、「この方は神の子、救い主だ」「この救いの業は神の業だ」とは言わず、【「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で追い出している」】(ルカ11:15)と言い、イエス様を「悪霊の頭ベルゼブルの力を持つ者だ」と非難したのです。つまり人々は、イエス様を受け入れなかったのです。それが、このイエス様の悪霊を追い出すという業を見た者たちの姿でした。人々の心には、苦しむ人が解放されていくことを「喜び」「恵み」として受け入れる心がなかったのです。イエス様は、そのような者たちに20節で【しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。】(ルカ11:20)と言い、この悪霊を追い出しているのは、神の業であり、神の国がここに来ている出来事だと教えているのです。これが、これまでのお話です。
今日の箇所は汚れた霊となっていますが、イエス様は悪霊に囚われている人々から、悪霊を追い出していたのです。それは救いの御業です。私たちは、隣にいる苦しんでいる人が、イエス・キリストに出会い、喜びに満たされていくことを共に喜ぶことができるでしょうか。それとも、その人がそのまま、苦しみ続けることの方がよかったと思うのでしょうか。この時イエス様の業を見た人々は、その恵みを受け入れませんでした。イエス様を神の子、救い主だとは受け入れなかったのです。そして、イエス様はそのような者たちに、今日の言葉を話されたのです。
2: 悪霊の存在する場所
今日の箇所において、人から追い出されて、出て行った汚れた霊は、砂漠でうろついて、休む場所を探します。この砂漠というのは、聖書によく出てくる荒れ野以上に、人がいることが厳しいとされる場所となります。荒れ野は、イエス様が福音宣教に出ていく前に、霊に導かれて、誘惑を受けた場所でもあります。またバプテスマのヨハネは荒れ野において働いていました。そのような意味で、荒れ野という場所は人間がまったく住むことができない場所ではありませんでした。それに対して、砂漠とは、乾いた場所、水のない場所とされ、人間にとっては、荒れ野よりも住むことが難しい、むしろ住むことはできない場所とされるところとされていたのです。汚れた霊は、ここで休む場所を探すのです。この休むという言葉は、「動作を止める」という意味をもっており、汚れた霊は、砂漠で「動作を止める」ことが出来なかったのです。悪霊は、人間がいないところには、居続けることすらできず、休むこと、動作を止めることも出来なかったのです。休む場所が見つからない汚れた霊は【『出て来たわが家に戻ろう』】(ルカ11:24)と言うのです。汚れた霊、悪霊という存在は、私たち人間が普通に考えると、むしろ砂漠のような人間のいない場所に沢山いそうなものです。ただ、この汚れた霊の動きを見ると、汚れた霊は、人間がいないところにはいられない存在であるということを見ることができるのです。つまり、汚れた霊は、砂漠という、地獄のようなところや、生と死のはざま、悪の入り口といったところに存在し続けているのではない。むしろ悪霊には入るべき人間が必要なのです。汚れた霊という存在は人間の中にいてこそ意味がある。人間を誘惑し、神様から離れさせるためにいる。そこに存在意義があるということです。そして、汚れた霊は、掃除をされて、整えられていた家を見つけると、その中にもっと多くの悪霊を連れて入り込んでいくのです。汚れた霊の入りやすい家、それは整えられた家となります。整えられた家とはどのような家でしょうか。色々な考え方があるとも思いますが、一つの考えとして、悪霊を追い出して、すっきりしている心であり、しかし、そこにはまだ何も入っていない状態。心の中が、決して良いもので満たされたというわけではない状態。イエス・キリストを心に迎え入れた状態ではないのです。この時、その心は一番危険な状態にあるのです。
これは、今日の箇所の前、イエス様が悪霊を追い出したという話から読み取るならば、「悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出した心」と言うことができるのではないでしょうか。悪霊を、もっと強い悪霊の力で追い出した心は、悪霊が入るために、掃除され、整えられた心となるのです。 それは、私たち人間が、自分の中にある、自分を支配する力。自分を抑圧し、息苦しく感じている時。それを、もっと大きな力で追い出した時。これまで何かに支配されていた者が、そのような者を追い出し、自分のことを自分で支配することができるようになったと勝ち誇っている者。自分自身で自分をコントロール出来ていると考え、満足している人。自分の力を信じ、傲慢になった者。そのような者を意味するのではないでしょうか。
3: 力で力を追い出す者
イエス様が話している時で言えば、イエス様を「悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している者」とした群衆。または37節から登場する、いわゆる律法学者やファリサイ派の人々と考えてもよいかと思います。ファリサイ派の人々は、決して神様のことを求めていないわけではありませんでした。神様を求め、復活を信じて、律法を守ることを大切にし、貧しい者に信仰を教えていたのです。これだけ聞けば、このファリサイ派の人々の存在も意味のあることが分かるのです。決してこの者たちの存在のすべてが「悪」ということではありません。ただ、このファリサイ派、律法学者たちは、律法を守ることを大切にしようとするあまりに、その律法に囚われてしまっていたのです。律法を守りたい。律法を守る必要がある。そこから、律法を守らなければならないとなり、最終的には、律法を守らなければ罪人であると断罪するようになっていったのです。そこから、病人や罪人とされる人は律法を守らない者であり、その存在は神様が喜んではいない。だから律法を守らなければ救いを得ることができないとなっていったのです。ファリサイ派の人々は、自分の心にある弱い部分を、律法を守ることで追い出そうとしたのです。律法が悪霊というわけではありません。イエス様は「律法を完成されるために来られた」とも言っています。ただその律法をもって、ファリサイ派の人々は、自分も他者をも裁く者となってしまった。神様ではなく、律法が自分を支配し、人を支配しようとするものとしたのです。つまり、心の中にある、人間的弱さを自分たちが律法を守ることで追い出そうとした。そして、いつの間にか、その律法が、心を支配するものとなってしまっていたのです。
力で力を支配しようとするとき、そこには大きな悪霊、汚れた霊がやってくるのです。これは、今の世の中をみれば、よくわかるのではないでしょうか。今、起きている世界中の争いは、力をもっと大きな力で支配しようとすることによって起こっているのです。ロシアがウクライナを力をもって支配しようとしたことに対抗して、アメリカ、西欧諸国が軍事支援を行うことによって、その争いは激化、長期化しているのです。中東においては、ハマスがイスラエルの人々を人質としたことから、イスラエルがもっと大きな力で攻撃をはじめ、今では中東全体を巻き込む争いとなっているのです。どちらの力が強いのか。どちらの意見が正しいのか。どちらがどちらを支配しているのか。そのようなことばかりが考えられ、争いは終わることがないのです。そして、力をもっと大きな力で支配すれば、そこにはもっと大きな力がやってきます。イエス様の時代で言えば、ユダやの人々はローマによって支配されていました。当時、このローマが滅びることなどは誰も考えていなかったかもしれません。しかし、ローマは滅びました。力で人を支配し続けることはできなかったのです。これが、人間の社会です。力を力で追い出したとしても、そこには必ず、もっと大きな力がやってくる。そしてそれはいつまでも、何度でも繰り返されるのです。そのために、汚れた霊は、住むべき人間。住むべき場所。自己中心という「自分が正しい」、「自分のためだけに」という考えによって、心が整えられた人間をいつも探しているのです。そしてその人間の状態がどんどんと悪くなるように働くのです。これが汚れた霊の働きなのです。
4: イエス・キリストを心に迎える
このような人間に、イエス様はこのように言われました。今日の箇所の一節前になりますが、23節では【わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。】(ルカ11:23)とし、また28節ではこのように言いました。【しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」】(ルカ11:28)イエス様は、「わたしに敵対するのではなく、私に味方すること、そして神の言葉を聞き、守る者となるように」と教えます。イエス様の味方となること。神の言葉を聞き、守ること。それは人間の心にある自己中心的な思い、また排他的な思い、自分だけが正しいとしてしまう思いから離れ、他者と共に歩むために、新しく一歩を踏み出していくこととなります。私たちの心の中には、「自分は正しい、他者は間違っている」としてしまう心があるのです。それが人間なのです。そのような思いは、時に、人を傷つけ、人の存在を否定するものとなるのです。「あなたは間違っている」。「あなたは存在価値がない」としてしまう。そして、時に、そのような思いが自分に向けられる時、「私は間違いばかりしてしまう。なんて弱い人間なのだろう。自分は生きている意味も、生きている価値もない」と自分自身の存在を否定する心となってしまうのです。
そのような私たち人間のために、イエス様は、私たちのところへと来て下さったのです。そして、同じ人間となり、その心のすべてを受け入れてくださったのです。そして、どのような人間であったとしても、そのような私たちを喜び、受け入れてくださったのです。私たちが、このイエス・キリストの味方になる時。それは、むしろ、すでに味方になってくださったイエス・キリストを心に受け入れていくときに、新しく歩みだす者とされるのです。
27節からこのようにあります。【イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」】(ルカ11:27-28)
イエス様は、この新しい道を歩みだすために、ただ、イエス・キリストを賛美するのではなく、神の言葉を聞き、そして守る者となるようにと教えます。私たちは、心の内に、イエス・キリストをお迎えしていきたいと思います。そして、そのために、私たちは御言葉に耳を傾けていきたいと思うのです。御言葉は、イエス・キリストご自身であり、そのイエス・キリストご自身である、御言葉の導きに私たちは、耳を傾けていくことが赦され、求められているのです。この御言葉によってこそ、イエス・キリストは、私たちを導いてくださるのです。私たちは、この神の言葉、御言葉に耳を傾けていきましょう。イエス・キリストは、すでに、私たちの心へと来て下さっているのです。私たちは、そのイエス・キリストを、心の中へと迎え入れていきたいと思います。(笠井元)