1: イエスを受け入れない者
汚れた霊は一度人から出て行ったのですが、休む場所がなかったため元いたところに戻ってみるときれいに整えられていたため、自分よりも悪い他の7つの霊を連れて元の場所に住み着いたのです。ルカ11章14節からの部分でイエス様は、口を利けなくする悪霊を追い出していました。群衆はこのことを「悪霊の頭ベルゼブルの力を持つ者だ」と非難したのです。人々は、イエス様を受け入れませんでした。イエス様はそのような者たちに、今日の言葉を話されたのです。
2: 悪霊の存在する場所
人から追い出されていった汚れた霊は、砂漠でうろついて休む場所を探します。砂漠は、人間にとっては荒れ野よりも住むことが難しい、むしろ住むことはできない場所とされるところでした。汚れた霊は砂漠で休む場所を探すのですが、人間がいないところに居続けることはできなかったのです。悪霊には入るべき人間が必要なのです。汚れた霊という存在は人間の中にいてこそ意味があるのです。汚れた霊の入りやすい家は整えられた家です。整えられた家とは、良いもので満たされてはいない状態。それは人間が自分のことを自分で支配することができるようになったと勝ち誇っている状態。自分の力を信じ、傲慢になった状態です。
3: 力で力を追い出す者
悪霊が入るために整えられた状態にある者として、律法学者たちやファリサイ派の人々と考えることができます。律法学者たちやファリサイ派の人々は、自分の心にある弱い部分を、律法を守ることで追い出そうとしたのです。そして、律法が心を支配するものとなっていたのです。力で力を支配しようとするとき、そこには悪霊がやってくるのです。どちらの力が強いのか。どちらがどちらを支配しているのか。そのようなことばかりが考えられ、争いは終わることがないのです。力をもっと大きな力で支配すれば、そこにはもっと大きな力がやってきます。これが、人間の社会です。
4: イエス・キリストを心に迎える
イエス様は、「わたしに敵対するのではなく、私に味方すること。神の言葉を聞き、守る者となるように」と教えます。私たちが、イエス・キリストの味方になる時は、むしろ味方になってくださったイエス・キリストを心に受け入れていくときです。イエス様は、新しい道を歩みだすために、神の言葉を聞き、守る者となるようにと教えます。私たちは神の言葉に耳を傾けていきましょう。私たちはイエス・キリストを心の中へと迎え入れていきましょう。(笠井元)