1: 神を畏れる者
今日は、モーセの話から始まります。出エジプト記で、モーセが生まれた時エジプトのファラオはイスラエルの民が増え続けることに恐れを抱いて、最初は、イスラエルの人々に重労働を課し、その後男の子が生まれた場合は、全員殺してしまえと命令したのです。【 1:22 ファラオは全国民に命じた。「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ。」】(出エジプト1:22)
モーセは今日の箇所では2つの理由で殺されなかったとされます。一つは「モーセが美しかった」、もう一つは、「王の命令を恐れなかった」とします。この「王の命令を恐れなかったというのは、両親というよりも助産婦シフラとプアの記事から読み取ったのではないかとされます。二人は、ファラオの命令を知りながらも、神を畏れる者として男の子も生かしておいたのです。(出エジプト記1:17)シフラとプアはファラオの命令よりも、神様を畏れ、神様の造られた命を大切にしました。
また、「モーセが美しかった」というのは、出エジプト記では【2:2 彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた。】(出エジプト2:2)とあるように出エジプト記では、「かわいかった」とあります。モーセの美しさとは、親がどのような子どもであったとしても、その存在を喜び「可愛い」と思うように、その命の尊さを表しているのです。モーセの親は、エジプトのファラオの命令に従うのではなく、その命を大切にしたのです。
2: 神か富か
モーセはファラオの王女の子として育てられました。出エジプト記では、「神の民と共に虐待される方を選んだ」というよりは、同じヘブライ人が奴隷として働かされ、鞭で打たれていることを見て、エジプト人を殺してしまい、ファラオから逃げるように出て行ったとされます。ヘブライ書では、この出エジプト記の言葉から、モーセは、エジプト王家の息子として生きることを拒み、虐待され、苦しみの中にある「神の民」として生きることを選んだとするのです。
この時、ヘブライ書の読者は様々な迫害の中にあったとされています。読者は、まさに苦難の中に生きるキリスト者として生きるのか、それを捨ててこの世の民として生きるのかを迫られていたのです。その人々に対して、ここではモーセの姿から「キリストのゆえに受けるあざけりはエジプトの財宝よりもまさる」ことを教えているのです。
イエス様はこのように教えられました。【「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」】(マタイ6:24)モーセがはかない罪の楽しみを選ぶのではなく、神の民と共に虐待されるほうを選んだように、迫害されたとしてもキリストに仕えることの大切さを教え、人々を励ましているのです。
3: 目に見えない方を見る
27節では、モーセが「王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去った」とありますが、出エジプト記では、むしろモーセはファラオを恐れ、ファラオの手を逃れて出て行ったとあります。(出エジプト記2:14-15)ヘブライ人への手紙の言葉は、出エジプト記の記事を新しい視点で読み、そこに神様の恵みを見ています。ここではモーセを褒めたたえるのではなく、神様の恵みとしての信仰を見出すために「目に見えない方を見るているように」ということを教えているのです。実際に目の前にあるものを越えて神様は働いてくださるのです。「目に見えない方を見ているように」それは、私たちを越えて働かれる神様を見ることを教えています。どれほどの窮地にあろうとも、神様が共にいてくださることを覚えたいと思います。
4: 滅ぼす者が通る時
モーセは信仰をもって滅ぼす者の「過ぎ越し」を信じたのです。またイスラエルの人々は信仰によって、海を渡ったのです。私たちにとって、滅ぼす者が通ることはどのようなこととして見ることができるでしょうか。神様がその滅ぼす者、死を越えて共にいてくださることを信じることができるでしょうか。滅ぼす者が通るときに耐えられるのは、イエス・キリストによる恵みを信じる信仰しかないのです。
5: エリコの城壁とラハブ
30節からはエリコの城壁が崩れ落ちたこと、また31節ではラハブがエリコを探るために行った二人の斥候を助けたことを語ります。これはヨシュア記2章と6章に記されていることですが、イスラエルがエリコを攻撃したときのこととなります。エリコの城壁が崩れたことは、どれほど高く、堅い城壁も、神様の御業によって崩れ去ること。それは物理的なものだけではなく、心理的、心の中にどれほどの大きな壁を作ろうとも、神様はその壁を崩し、入って来られることを聞くことができます。またラハブという異邦人の娼婦という立場にある者も、信仰によって救いを得ることができること、そのような弱い立場にある者を、神様は見てくださり道を開いてくださることを教えられます。
私たちは、どれほどの困難にあっても、どのような立場にあろうとも、神様が共にいて下さることは決して変わらないことを信じていきたいと思います。著者は、「信仰によって・・・」と、信仰によって救いを得ることを何回も何回も教えているのです。私たちは、このように何度も励ますことの大切さ、また何度も励ましを頂いていることも覚えたいと思います。(笠井元)