1: 旧約の信仰者
ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、その他の預言者たちと挙げられます。ギデオン(士師記6:11-8:32)、バラク(士師記4:6-24)、サムソン(士師記13:24-16:31)、エフタ(士師記11:12-12:7)は士師の4人のことであり、ダビデとサムエルはイスラエルが士師の時代から、王制に移行するときの代表的な二人とされます。これらの人たち、またその他の預言者たちがしたこととして、33節から38節までに語られます。それぞれに当てはめてみると以下のように考えられています。
33節:国々を征服し(ヨシュア)、正義を行い(士師たち)、約束されたものを手に入れ(ダビデ、ソロモン)、獅子の口をふさぎ(ダビデ、ダニエル)
34節:燃え盛る火を消し(ダニエルの友シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人)、剣の刃を逃れ(アブサロムから逃れたダビデ、エリヤ、エリシャなど)、弱かったのに強い者とされ(サムソン、ユディト書に記されているユディト)、戦いの勇者(ゴリアトに勝利したダビデ)、敵軍を敗走させた(マカベア書に記されているシリアからの独立戦争で勝利したこと)
35節:女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました(エリヤに子どもを生き返らしてもらったサレプタのやもめ、エリシャに子どもを生き返してもらったシュネムの女)更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられた(マカベア書の人々)
36節:あざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました(マカベア書の人々、エレミヤ)
37節~38節:彼らは石で打ち殺され(祭司ヨヤダの子ゼカルヤ(歴下24章))、のこぎりで引かれ(イザヤ)、剣で切り殺され(エリヤの時代のイスラエルの預言者等)、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、 11:38 荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。(エリヤ、エリシャ、マカバイ時代の者たち等)
2: 福音の土台
まず12:1-3を土台として学びたいと思います。信仰の創始者、完成者としてイエスは十字架で死なれたのです。自分が神の子であるという立場から人間という弱い者となり、しかも十字架という最も苦しく、恥となる死に方で死なれたのです。これが、これまで語ってきた旧約の人々がどれほどに信仰者と認められても、手に入れることが出来なかった(ヘブライ11:39)とされる福音の出来事なのです。神様は、このイエス・キリストをもって、私たちに信仰を持って生きる道を開いてくださったのです。このことを土台として11章32節からを読んでいきたいと思います。
3: 不完全なもの
33節から34節では、「信仰によって・・・国々を征服し・・・戦いの勇者となった」とあります。このことを肯定してしまえば、現在の社会の各地で起こっている戦争や軍事行為を認めてしまうことになります。このことをどのように読み取るのか、悩まされます。
「国々を征服した」というのは出エジプトからカナンを征服していくイスラエルの事とされます。イスラエルはカナンを征服することで「約束されたものを手に入れた」のです。しかし、これは39、40節にあるように、完全な状態に達したわけではなく、本当に約束されたものを手に入れたわけではありませんでした。
34節では「弱かったのに強い者とされた」ともあります。もともとイスラエルは弱い者であったのです。【7:7 主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。】(申命記7:7)神様は弱い者を愛してくださったのです。そして、弱い者を守るために、士師、王、預言者を立てて敵軍を敗走させたのです。これがエジプトから逃げ出してきたイスラエルの民が神様から頂いた恵みとするのです。しかし、ここで手に入れたものはあくまでも不完全なものなのです。
4: 命を越えた方
35節では、【女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。】(ヘブライ11:35)とあります。神様は人間の命をも越えた方であるのです。神様は、力に対して力ではなく、自らの命をもって救いを与えてくださいます。それはどこまでもへりくだる道です。神様は、命を造り、命を養い、また命を取られます。私たちは、この命の主によって生かされているのです。だからどのように生きるのか、考えていきたいと思います。
5: 迫害の中で
35節後半からは「拷問にかけられ、あざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄され・・・」と迫害されていくことについて語られ、最後に38節では【世は彼らにふさわしくなかったのです。】(ヘブライ11:38)と言うのです。
当時の読者は、キリスト者となったことで多くの迫害を受けていたとされます。ここでは同じような迫害を受けてきた、信仰者について語り【世は彼らにふさわしくなかった】(ヘブライ11:39)としました。キリスト者として生きるということは、この世にふさわしくない、この世では受け入れられないのです。この世の価値観とキリスト者の価値観は全く違うものなのです。神を自らの主とした者として生きる時、私たちは必ずこの世では息苦しさを感じるものです。この世は自分の栄光を求めます。信仰は神様の栄光を求めます。この世は自分だけを愛します。信仰は神を愛し、自分を愛し、同じように人を愛するのです。この世は力に対して力を持ちます。信仰は力に対して、キリストの死による福音を持つのです。
私たちは、この世においてどのように生きていくのか考えたいと思います。
6: 約束されたもの イエス・キリストによる救い
旧約聖書に登場する信仰者の代表を挙げて、それぞれが【その信仰のゆえに神に認められ】(ヘブライ11:39)た者であると語ります。これらの人々は「信仰によって神を見て、生きてきた」、そしてそのことを神様に認められた信仰者なのです。しかし、ここで大きな転換として【この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。】(ヘブライ11:39)とするのです。
ここでの「約束されたもの」は、イエス・キリストの福音のことです。旧約聖書の信仰と新約聖書の信仰は連続したものです。旧約聖書では神と人との対話によって信仰が示されてきました。その信仰が繋がる決定的な出来事としてイエス・キリストの福音があるのです。
9章でイエス・キリストは自ら大祭司となり、また自分を贖いの献げ物として献げることによって、永遠の贖いが成し遂げられたと語ってきました。どれほど素晴らしい信仰を持っていたとしても、どれほど知恵や知識を持っていたとしても、私たちは自分の行為による救いを得ることはできないのです。神様はイエス・キリストを通して、すべての人に救いを与えてくださったのです。(笠井元)