1: 何を神様からのしるしとしているのか
今日の箇所で、イエス様は【「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」】(ルカ11:29)と言われました。今日から少し前、小見出しでは「ベルゼブル論争」となっている11章14節からの箇所で、イエス様は悪霊を追い出していました。このことに対して、16節において【イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた。】(ルカ11:16)とあります。人々は、悪霊を追い出すイエス様に対して、その業が、神様からの業であることの「しるし」を求めたのでした。人々は、「しるし」を求めました。しかし、それは、ただの奇跡を求めていたのではありません。ここでは、すでに悪霊を追い出し、口が利けなくなっていた者が癒されていたのです。そういう意味では、ここでイエス様はすでに、病人をが癒されるという奇跡的な業をなされていたのです。ただ、それを人々は、「神様のしるし」ではなく、「悪霊の頭ベルゼブルによるものだ」としたのです。つまり、人々が求めていたのは、ただの奇跡ではなく、その悪霊を追い出すという奇跡の業が、「神様からのものである」という「しるし」を求めていたのです。
人々は、しるしを求めました。ではこの人々は、何をすれば、それを神様からのしるしとして信じたのでしょうか。それは、ただ、この人々が求める、思い通りの出来事、自分の欲求を満たす出来事、そのような、自分の心を満たすものが起こされた時なのだと思うのです。つまり、それが神様からであろうが、悪魔からであろうが、そのようなことは、まったく関係がなく、自分たちが願うことが起こされた時、人々はそれを神様からのしるしとして信じたのではないでしょうか。簡単に言うと、自分の思い通りになれば、それは神様からのもの、自分の思い通りにならなければ、それは悪霊からのものとする、それが、この時の人々であったということです。
それは、私たちも同じかもしれません。私たちは、何を、神の業として求めているでしょうか。目の前で愛する人の病気の癒しが起こされた時、私たちはそれを神様の業として信じるでしょうか。大抵の人は、神様の業と信じて、神様に感謝するでしょう。では、自分が憎む存在の者が癒されたのであれば、それを皆さんはどのように思うでしょうか。憎む者が癒されていくのを見て、また、様々な出来事を通して、苦しみ、痛みを超えて、幸せになっていくことが起こされていったときに、皆さんは、そのような出来事を、神様の御業だとして信じて、喜ぶことができるでしょうか。私たちは、目の前にあって同じ出来事が起こされたとしても、それが自分にとってどのような意味があるのか、自分の利益になることなのか、それとも自分にとって不利益になることなのかで、それを神様の業、または悪霊の業と考えてはいないでしょうか。自分の願いが叶えられ、心が満たされる時、私たちはそれを喜びます。それ自体は決して悪いことではありません。むしろ人間として当然のことでしょう。ただ、それだけであった場合は、本当の意味で、心の中心に神様を受けいれているかはわかりません。イエス様は、このように、自分の願いだけを叶えるしるしを求める者たちを見て、【「今の時代の者たちはよこしまだ。」】(ルカ11:29)と言われたのです。
2: ヨナのしるし
イエス様は、29節で【ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない】(ルカ11:29)と言われました。ヨナとは、旧約聖書にある、ヨナ書の主人公として登場する人物のことです。このヨナについて少し説明を致しますと・・・神様はヨナに「ニネベという町に行き、悔い改めるように伝えなさい」と言われたのです。ただ、このニネベという町は、北イスラエルを滅ぼしたアッシリアの首都でした。自分たちの国を滅ぼした強大な敵国の首都です。そのようなところに、神様から「悔い改めるように伝えに行きなさい」と言われたからといって、「では行ってきます」と簡単に答えることができる場所ではないのです。しかも、そんなところで、「あなたたちは神様の目から見て、悪いことばかりしている。このままではあなたがたは神様によって滅ぼされてしまいます。悔い改めなさい。」と言って、誰がそのような言葉を信じるでしょうか。むしろ、そんなことを言えば、笑われ、馬鹿にされ、もしかしたら捕まえられ、殺されてしまうかもしれないと考えるものです。そのため、ヨナはこの神様の言葉から逃げ出したのです。これは当然の選びでしょう。ヨナは船に乗って逃げ出しました。しかし、神様はヨナを放すことはなく、嵐を起こされ、結果として、ヨナ自身がまず悔い改め、ニネベに行くことになるのです。そして、ヨナは、ニネベの人々に対して、【「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」】(ヨナ3:4)と叫んで歩き回ったのでした。すると、そこで起こったのは、ヨナの予想とはまったく違い、人々は、この神様からの言葉を聞いて、ヨナを笑ったり、捕まえたりするのではなく、素直にその言葉を信じて、王様から、すべての人々が悔い改めていき、結果として、ニネベの人々は、神様に赦されていったのでした。
今日の箇所において、イエス様が言われた「ヨナのしるし」とは、このニネベの人々が神様の言葉を聞いて、悔い改めていったこととなります。人々は、ヨナの言葉を信じて、それを神様の言葉として信じて、悔い改めたのです。
そして、イエス様は、このヨナのしるしと合わせて31節からは「南の国の女王」についても話をされます。この「南の国の女王」とは、現在のエチオピアあたりにあったと考えられているシェバの女王のことと考えられています。このシェバの女王がイスラエルの王ソロモンのところに来たことは旧約聖書の列王記と歴代誌に記されています。そして、シェバの女王はソロモン王に様々な質問をしたのですが、何を質問してもソロモン王が答えられたことから、ソロモンに知恵を与えた神様を賛美したのです。このシェバの女王はソロモンの知恵を聞き、神様を信じたのです。
イエス様は、ここで、ヨナのしるしと一緒に、この南の国の女王を挙げて、神様の言葉によって変えられ悔い改めたニネベの人々、そして神様の与えた知恵によって、神様を賛美した南の国の女王の・・・「信じる心」、「悔い改める心」がそこにあったことを教えているのです。
3: イエスを救い主として信じる
そして、イエス様は、31節、32節において、「ここに、ソロモンにまさるものがある」「ここに、ヨナにまさるものがある」と言われました。ここに、ソロモンの知恵、ヨナの言葉よりも、むしろ神様の言葉そのものであられる方、イエス・キリストがおられるのです。私たちは一体何があれば、イエスをキリスト、救い主として信じるのでしょうか。自分の求めるものが与えられ、願望が満たされるならば、そこに神様がおられると信じるとしているならば・・・そのような「自分の思いを満たすしるし」を求めているならば、イエスをキリスト、救い主と信じることはできないでしょう。今日の箇所の1節前の28節で、イエス様はこのように言われました。【イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」】(ルカ11:28)イエス様は「幸いなのは、神の言葉を聞き、それを守る人だ」と教えます。
私たちは、何を求めて、何を信じて、何を大切にして、何のために生きているのでしょうか。皆さんにとって一番大切なものは何でしょうか。皆さんは、何を一番にして、何を求めて生きておられるのでしょうか。ヨハネによる福音書では、このように教えます。【神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。】(ヨハネ3:16-17)
【神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された】のです。神様は最も愛するはずの御子イエス・キリストの命をもって、この世、私たち一人ひとりに愛を現わして下さいました。神様は、私たちを愛で包み込み、愛されている者として、喜んで生きることができるために、御子をこの世に送ってくださったのです。私たちはこの神様の愛の言葉、愛の業を信じることができるでしょうか。わたしは神様に愛されている。あなたも神様に愛されている。この言葉を信じる時、私たちは、イエスをキリスト、救い主と信じる者とされていくでしょう。この神様の愛を信じて飛び込む。それが信仰の第一歩なのです。
この時、イエス様は悪霊を追い出していたのです。このイエス様の癒しの業は、決して単なる超常現象ではないのです。イエス様は、神の子でありながらも、人間となられ、そのうえで悪霊に囚われ、苦しむ人の隣に来られたのです。イエス様は、苦しむ人と共に生きる者となられたのです。
このイエス様の業は、自らが痛みを伴われた業でした。共に生きるとは、自分自身が痛みを負うことになるものなのです。
フィリピの信徒への手紙ではこのようにあります。【キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。】(フィリピ2:6-8)イエスをキリスト、救い主として信じるのは、この自分を無にしてまで、私たち人間を愛されたというところにあります。神の愛。そしてその神の愛をどこまでも信じて、へりくだり、歩まれたイエス・キリスト。この関係に繋がる時、私たちは、本当の生きる意味を見つけることができるのではないでしょうか。
4: 輝いて生きる
最後に33節からの言葉から聞いていきたいと思います。34節では【あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。】(ルカ11:34)と教えます。私たちの心の目が澄んでおり、心を開いて神様の言葉を受け入れる準備が出来ているならば、その心も、そしてその体も、つまりその存在自体が、神様の光によって輝かされた者とされるのです。イエス様は、私たちが、神様の言葉を受け、輝いて生きることを願っているのです。このとき、人々は、悪霊を追い出すイエス様の業、苦しむ人を解放するという奇跡の業を見て、それを神様の業としては受け入れませんでした。そして、イエス様が何を言おうとも、その言葉を神様の言葉としては受け入れませんでした。その中心には、「イエス様を受け入れても自分にとって何も利益にはならない、むしろイエス様を受け入れれば、自分の正しさが否定されてしまう」といった思いがあったのでしょう。
この者たちの心に、神様の言葉を受け入れる隙間はありませんでした。34節の言葉で言えば、この者たちの心の目は濁っていたのです。そのような者に、イエス様がどのようなことを語ったとしても、どれほど素晴らしいことをしたとしても、それを神様の業として信じることはなかったのです。私たちの心には、神様の言葉を受け入れる場所があるでしょうか。私たちの心の目は澄んでいるでしょうか。それとも濁っているでしょうか。イエス様をキリスト、救い主として受け入れる心があるでしょうか。
私たちは、今、心の目を開いて、神様へと向けていきたいと思います。神様は、この世を愛し、イエス様を送ってくださいました。そしてイエス様は、どこまでもへりくだり、自分が痛み、苦しみながらも、隣人を愛し、共に生きたのです。この神様の愛に目を向けたいと思います。そしてここに生きる意味があることを受け入れていきたいと思います。(笠井元)