1: 何を神様からのしるしとしているのか
イエス様が悪霊を追い出していたことに対して16節では【イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた。】(ルカ11:16)とあります。イエス様の業が神様からの業であることの「しるし」を求めた人々がいたのです。この人々は何を神様からのしるしとして信じたでしょうか。この人々はそれが神様からであろうが、悪魔からであろうが、自分たちが願うことが起こされた時、それを神様からのしるしとして信じたのではないでしょうか。私たちは、同じことが起こされたとしても、それが自分にとって利益になるのか、不利益になるのかで、それを神様の業、または悪霊の業と考えてはいないでしょうか。
2: ヨナのしるし
イエス様は、【ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。】(ルカ11:29)と言われました。ヨナとは、旧約聖書のヨナ書の主人公として登場する人物です。イエス様が言われた「ヨナのしるし」とは、ニネベの人々がヨナが伝えた神様の言葉を聞いて悔い改めたことです。イエス様は31節からは南の国の女王についても話をされます。南の国の女王はソロモンに知恵を与えた神様を賛美したのです。
3: イエスを救い主として信じる
私たちは一体何があれば、イエスをキリスト、救い主として信じるのでしょうか。イエス様は「幸いなのは、神の言葉を聞き、それを守る人だ」と教えます。【神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された】(ヨハネ3:16)のです。神様は最も愛するはずの御子イエス・キリストの命をもって、この世、私たち一人ひとりに愛を現わして下さいました。私たちはこの神様の愛を信じることができるでしょうか。イエス様は、神の子でありながらも、人間となられ、そのうえで悪霊に囚われ、苦しむ人の隣に来られたのです。イエス様は、苦しむ人と共に生きる者となられたのです。イエス様の業は、自らが痛みを伴われた業でした。共に生きるとは、自分自身が痛みを負うことになるものなのです。
4: 輝いて生きる
私たちの心の目が澄んでおり、心を開いて神様の言葉を受け入れる準備が出来ているならば、その心も、その体も、その存在自体が、神様の光によって輝かされた者とされるのです。イエス様は、私たちが、神様の言葉を受け、輝いて生きることを願っているのです。私たちの心には、神様の言葉を受け入れる場所があるでしょうか。私たちの心の目は澄んでいるでしょうか。私たちは、今、心の目を開いて、神様へと向けていきたいと思います。(笠井元)