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2024.11.10 「こどもを招くイエス様」(全文) マルコによる福音書10:13-16

東福岡教会の幼稚園にお子さんたちを送り出して下さっている保護者の皆様に心から感謝しています。このような幼児祝福礼拝だけでなく、毎週の日曜日の礼拝にも心から歓迎いたします。また、幼稚園関係者ではなく、この礼拝に出席されておられる方々も大歓迎です。

 先ほど、読みました、マルコによる福音書には、子どもたちを招くイエス様の姿が描かれています。そして、15節は、「はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」と言われています。子どもたちの姿は目には見えないけれどもわたしたちの中で確かに働いておられる神の愛と正義の世界を信じて生きることができるように、大人たちのお手本であるというのです。

 

1.子どもたちにさわっていただくために

 物語は「イエスに触れていただくために、人々が子どもたちを連れてきた。」という言葉で始まっています。軽く触れ合ったり、ハイタッチをしたり、握手をしたりして接触することは大切なことです。日本人は多少恥ずかしがり屋で、特に大きくなると人に触れられたりするのを嫌がるところもあります。ここで話題になっている子どもたちとは何歳くらいなのでしょうか?16節では、イエス様は「子どもたちを抱き上げて、手を置いて祝福した」とあるので、幼稚園児から小学校低学年生くらいでしょう。このくらいまでの子どもたちは、人に触れられるのを嫌がることもないので、園児の保護者の方々は一日一度は子どもたちにタッチしたら良いでしょう。「触れていただくため」は、「しばる、結びつける」ということが元の意味ですから、「自分自身を~にくっつける、すがりつく、しがみついて離れない(mid.)ということで、軽いタッチというより、かなり密着した接触を意味しているのかも知れません。

 

2.弟子たちは子どもを連れてきた人々を「叱った」

 ところが、弟子たちは、子どもを連れてきた人々を「叱った」というのです。「叱る」を意味する「エピティマオー」という言葉は、「その価値相当のものを割り当てる」という意味です。「値段を決めること」です。イエス様の当時、こどもたちは、親の所有物であり、成人した人から見れば、まだ役に立たないものと看做されていました。また、イエス様の弟子たちから見れば、子どもたちは宗教的会話にはまだ「早い」、あるいは「騒がしい」と考えたのかも知れません。「たしなめる」、「叱る」と翻訳された、この言葉の背後にある弟子たちの気持ちはともすると余裕のない私たちの心をかすめる想いなのかも知れません。ハグしてあげるべきときに、今忙しいから、あっちに行って!と言いがちです。

 

3.主イエスは子どもたちを祝福される

このような弟子たちの評価に対して、主イエス様は、子どもたちを招き、喜ばれ、受け入れ、祝福して下さったのです。イエス様の想いは、弟子たち、そして私たち大人の評価とは全く違っているのです。「祝福する」とは喜ばれるということですが、ここでは、「メッチャ喜ばれる」という言葉が用いられています。

 今日はメッセージ後の応答賛美歌で、『こども讃美歌』から「こどもをまねく」という歌を皆さんで歌う計画です。「こどもをまねく ともはどなた こどもの好きなイェスさまよ ホサナとうたえ、ホサナとうたえ こどものすきなイェスさまを」という歌詞です。折り返しの「ホサナ」は少し難しいですが、ヘブライ語で「いま救ってください」という意味です。わたしは「こどもの好きなイェスさま」という歌詞が心に響きます。皆さんのお子さんが始めに発音したことばを覚えていますか? 「ママ」ではなくて、「パパ」だったのでしょげておられる方もあるかも知れません。子どもたちは割と早い時期から「大好き」という言葉を覚えます。ときどき、「大、大、大好き」などと言いますね。まあ、同じ時期に、「イヤ!」という言葉も覚えるし、「大嫌い」も覚えます。そんなこともありますので、大人は「好き」よりも、「大切にする」という言葉で「愛」ということを表現しますね。わたしはあなたのことを祝福します良いですね。主イエスは子どもたちを祝福されました。わたしの言葉で言えば、イエスさまは子どもたちが好きでした。いまでもそれは変わりません。

 

4.主イエスは、憤られた!

 こどもたちを連れてきた人たちをたしなめた弟子たちを見て、主イエスは「憤られた」というのです。これが今朝私たち、特に大人たちが聴くべき神の言葉です。「イエスは憤られた」。イエス様は、しばしば、思い上がる私に対して、時に自分を過大に評価してしまう皆さんに対して憤られるのです。イエスは憤られた。これは、ちょっと厳しくはありますが、嬉しい恵みの言葉ではないでしょうか。自分を何か大きな者、優れた者と看做し、幼い子らを見くびる危険性について、「そうではない」、「それは危ない」、「神の国を受け損なうぞ」と厳しく警告してくださるのです。そう考えればまさにこの主イエス様の憤りこそ「恵み」の言葉として捕らえることも出来るのです。自分なんかイエス様には相応しくない、教会員に相応しくないなどと思っている方、過少評価する人があれば、イエス様は、「そうじゃない」とあなたを叱って下さるのです。

 

5.子どものように、神の国を受け入れる

 最後に、「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」

 

15節)に触れておきましょう。「神の国」とは、目には見えないけれども確かにわたしたちの中で働いておられる神の愛と正義の世界のことです。ここで、主イエスは、子どもたちを何か純粋で、美しいものとして考えておられる訳ではないでしょう。子どもに罪がないとか、子どもは清いとは言われていません。ただ、子どもたちは、助けてくれる人がいなければ、自分だけでは生きられないことを知っているのです。子どもたちは、結構遠慮なく我儘(自己中心的)です。大人では遠慮して言わないことでもはっきり言ってしまいます。ですからここで、言われていることは、子どもが本来持っている美徳のことではなく、他者なしでは、他者の助けなしでは、決して生きられない自分であることを知っているという凄さです。子どもたちは、自分が他者に依存しているということを知っており、その現実を「受け入れている」のです。この一点で、子どもたちは皆さんの手本です。幼稚園児はどんどん成長します。大人も共に成長しましょう。大人の場合は成長というより「成熟」するということでしょうか?主イエスは実は大人の皆さんもお一人おひとり「好きだよ」と言って下さることは確実です。子どもを招くイエス様は大人の皆さんも喜んで招きます。(松見俊)