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2024.11.17 「私たちを受け入れ、変えて下さる方」(全文) ルカによる福音書11:37-54

1:  ファリサイ派との食事

 今日の箇所は、イエス様が、ファリサイ派の人から食事の招待を受け、そのファリサイ派の人の家での食事の場面となります。まず、イエス様がファリサイ派の人から食事の招待を受けたこと、そして、イエス様がその招待に応えて行かれたことに大きな意味を感じるのです。現代においても食事を共にするということは、出会い、その仲を深めるのにとって大切な行為となります。関係を深めるという意味で、それはイエス様の時代も変わりませんでした。共に、食事をし、食卓を囲み、恵みを分かち合う中で、お互いのことを知っていくのです。ただ、その中で、もちろん、その仲を深めることができればいいのですが、時には、その心の中にある価値観や考え方の違いから、その関係が離れて行くこともあるものです。皆さんの中にも食事の席での失敗、仲良くなろうと思いつつも、そのようになることができなかったといった経験がある方もおられるのではないでしょうか。

今日の箇所において、イエス様とファリサイ派の人は、この食事の場を通して、心を深く通わせることにはならず、むしろその関係は悪化していったのでした。そしてそれは、イエス様があえて身を清めないという行為をされたことから起こっていったのです。イエス様は故意的にここで、ただ喜んで食事をするのではなく、ここから一つの問題提起をされたと言うことができるでしょう。ファリサイ派の人々にとって、食事の前に身を清めるということは、ただ、衛生上したほうが良いということではなく、神様の与えられた一つの大切な戒めで、それは守らなければならないものであったのです。ファリサイ派の人々は、戒めを守ることが信仰を守ることだと考えていたのです。そのため、別の箇所では、安息日に「癒し」を行ったイエス様に対して、「安息日に働くことは許されていない」と非難をしたのです。そして、結果として、イエス様はファリサイ派の人々から嫌われていくことになっていったのです。この大切な戒めをイエス様は守らなかったのです。ファリサイ派の人々は、このイエス様の行為をここでは「不審に思った」とあります。別の訳では「驚いた」と訳されていました。ファリサイ派の人々にとって、戒めを守らないこと、しかも実際に戒めを何よりも大事にしていたファリサイ派の人に招待された場面で、戒めを守らないことなどありえないのです。ファリサイ派の人々にとって、これはまったく予定していなかったこと。考えられない行為でした。どうしてそのようなことをイエス様がなされたのでしょうか。それはただの嫌がらせなどではなく、イエス様は、この身を清めるという行為をしないことから、この食事の時を、ただの食事の時ではなく、戒めを守るということの本当の意味を、共に考える時とされたのです。

 

2:  心の内側を見る

 ファリサイ派の人々が何よりも大切にしていた、戒めをイエス様は守られませんでした。そしてイエス様はこのように言われました。【「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。」】(ルカ11:39)イエス様は、「あなたがたファリサイ派の人々は、戒めを守ることだけを大切にしてはいるが、実際にその中にある心の内側はどうなっているのでしょうか」「あなたは何のために戒めを守っているのですか」「あなたの心は神様に明け渡され、神様を主として戒めを守っているのでしょうか」と尋ねられたのです。イエス様は、ただ行為として正しいことをしようとする者に対して、その心の内がどのようになっているのかを問われたのです。

 このイエス様の言葉は、私たちにも向けられています。私たちの心はどのようになっているでしょうか。皆さんは、自分の心の奥底まで見て、そのすべてが神様のまなざしに耐えきれるほどに正しく生きていると言うことができるでしょうか。それこそ、私たちも表面的に神様に従うことが出来ていると思っていても、心の奥底まで見た時に、その心を神様に差し出すことは、恐ろしいことではないでしょうか。私たちは自分の心を見る時に、人の目や、自分の満足など、外側ばかりを気にして、本当の心の奥底では、その思いを神様に明け渡すことができていない、ここで言えばファリサイ派と同じ者としているのではないでしょうか。イエス様は、私たちに問われます。 「あなたの心の内側はどのようになっていますか」「あなたは心を神様に向け、神様を主として歩むことが出来ているでしょうか」と。

 

3:  戒めによって、他者を裁く者となる

 イエス様は、42節では、十分の一の献げ物について語られていきます。ファリサイ派の人々は、徹底して神様の戒めを守っていました。ここでは薄荷(はっか)や芸香(うんこう)、そして、日常の食べ物である、野菜の十分の一を献げていたのです。このように徹底して十分の一を神様に献げて、戒めを守ることは、大切なことです。イエス様も【もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならない】(ルカ11:42)とも言われました。十分の一の献げ物をすることは、何よりも、神様が、私たちに生きるための命、そして恵みを与えて下さることを感謝し、その一部をお返しすることとなります。感謝の行為なのです。神様に愛されている喜びを受けた者として、その一部を、何よりもまず神様に感謝をもって献げることであり、それは同時に、残された十分の九で神様に従って生きること、神様に感謝をもって生きることに繋がるのです。ここに神様への献げ物の意味があるのです。

 この時、ファリサイ派の人々は、確かに献げものをしていました。しかし、それは、ただただ、戒めとして、しなければならないこととして、この十分の一の献げものをしていたのです。そこには、神様への感謝、神様の恵みを頂いているという思いはなく、「自分は正しいことをしている」といった満足感や優越感しかなかったのです。イエス様はこのことを指摘しているのです。

 また、イエス様は44節でこのように言われました。【「あなたたちは不幸だ。人目につかない墓のようなものである。その上を歩く人は気づかない。」】(ルカ11:44)当時の考えで「墓」というのは、宗教的な意味で汚れを及ぼす場所と考えられていました。そのため、一つの規定として墓は町の中には作ることは禁じられ、人々から避けて置かれていたのです。ここでイエス様が「あなたがたは、人目につかない墓のようなものである」と言ったのは、人々が、その上を気づかないで歩いてしまっている。つまり、あなたの周囲の人々は、気づかないうちに、あなたによって、悪影響を受けてしまっている。あなたは、気づかない間に人々を汚してしまう存在となっていると教えているのです。イエス様は、「あなたがたが、ただ外側だけを大切にし、その心の中で神様を見ようとしていない時、あなた方は人目につかない墓となっている。つまり、気がつかない間に人を汚す者、人に悪影響を及ぼす者となっている」と教えられているのです。とても厳しい言葉に聞こえますが、この言葉もまた、私たちに向けられています。

この「人目につかない墓となる」ということは、何よりも、私たちが、「自分は正しい」と考えることによって起こる、「差別」ということができるのではないでしょうか。十分の一の献げ物でもそうですが、ファリサイ派の人々は、戒めを守ることで、「自分は正しい」と考えていたのです。そして、戒めを守らない人々、戒めを守ることができない人は間違った者たち、罪のうちにある者とした。そして、ファリサイ派の人々は、それこそ周囲の人々を差別し、断罪した。周りの人々を裁いていく者となってしまっていたのです。これが自分勝手に、自分を正しいとしていく者が与える、周りの人への影響の一つです。

 

4:  重荷を負わせる者

また、45節からは、律法の専門家が出てきます。律法の専門家というのは、ファリサイ派の人々が宗教的な教えを人々にする際に、聖書的な根拠を示し、解釈を与える人々でした。そのような意味では、ファリサイ派の人が、このように言われることは、その聖書的解釈、聖書的根拠を示している律法の専門家も、同じように言われているものであったのです。イエス様は、律法の専門家に対して「あなたも神様の前に立ちなさい。あなたも自分の心を神様の前に出してみなさい」と教えていくのです。46節でこのように言います。【「『あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ。』」】(ルカ11:46ここで、イエス様は、律法の専門家が、人々に命を与えるはずの御言葉を、間違った形で使い、人々にただ重荷を負わせているとしたのです。律法の専門家は、「神様の栄光を汚すから、これはしてはいけない、また、あれもしてはいけない」と教えてきたのです。そのように、人々に、背負うことのできない戒めを与え、重荷を聖書から負わせていたのでした。つまり、律法の専門家は、ファリサイ派の人々と同じように、戒めを振りかざし、人々を裁いていた。そして「あなたがたが罪人とならないために」とし、負うことができない重荷を負わせていたのです。これもまた、気づかないうちに周囲の人々を傷つけ、神様の恵みから遠ざけていく者、行為として見ることができるのです。

このことを、今で考えてみるならば、教会で語られる聖書の言葉が、間違って使われていないかと、イエス様から、問われているということが出来るのです。教会の中で聖書の言葉は、数多く使われます。礼拝において、また祈りの際に、また学びにおいて、またお互いの励ましの時など、様々な場面で、用いられ、語られるのです。イエス様は、この教会で語られている聖書の言葉が、ただの戒めとなり、お互いを裁き、人に重荷を負わせるだけになってはいないかと問われているのです。聖書の言葉は、本来、そこから神様の福音を聞き、重荷から解き放たれ、希望と愛をいただくためにあるはずのものなのです。

 

5:  心を受け止め、変えてくださる方

 イエス様は、このファリサイ派の人々、そして律法の専門家との話しあいにおいて、「あなたたちは不幸だ」と、6回も繰り返されて語られました。この「あなたたちは不幸だ」というイエス・キリストの言葉は、決して私たちを見捨てられた、嘆きではないのです。むしろ、私たちと向き合い、しっかりと受け止めて下さる中でこそ、なされたイエス・キリストの嘆きなのです。最初にも話しましたが、イエス様は、この時、まず、ファリサイ派の人の招待に応えて、共に食事をすることを受け入れられたのです。イエス様はファリサイ派の人を最初から見捨て、関係を持つことすらしないのではなく、ファリサイ派の人のところに来られたのです。そして、そのうえで、話しを始められました。それは、お互いの心が明らかにされる場所に、まず、イエス様が来てくださったということです。そして、その者の今ある心の内を見てくださり、そこから変えられることを願って、話し合って下さったのです。この食卓にイエス・キリストが来られたということ。それはイエス・キリストが、私たちの痛みや、苦しみ、そして、知らず知らずに他者を傷つけてしまっているような、弱さを、明らかにされ、そのうえで受け止めてくださる。その場所へ来てくださったということなのです。イエス・キリストは、私たちと向かい合われる場所、私たちの心の中と、しっかりと向かい合われる場所へと来てくださったのです。その中で、私たちの弱さも、汚れも、すべて受け止めてくださっているのです。

 

 イエス・キリストは、私たちを受け止め、そして、そこから私たちが新たに歩み出すこと、新たに、神様を心に迎え入れていくことを、願っておられるのです。イエス・キリストの言葉は、食卓で、ファリサイ派の人々が反発の姿を示したように、私たちにとって、時に耳障りであり、受け入れたくない、反発したくなるような言葉も、たくさんあるのです。しかし、イエス・キリストは、そのような私たちに、何度も、あきらめることなく、語り掛けて下さっているのです。イエス・キリストが、私たちの隣にいて、共にその重荷を担って下さっているという現実があるからこそ、イエス様は力強く、私たちに、「あなたたちは不幸だ」「あなたたちは心を変える必要がある」「わたしと共に心を変えて、共に歩んで行こう」と語り続けてくださるのです。私たちが、神様を心に迎え入れ、これまで自分中心であり、他人の重荷になど目もくれなかった、私たちの心が、変わるように、イエス・キリストは願っておられます。私たちは、イエス・キリストが、私たちのために与えてくださっている、恵みを受け、イエス・キリストと共に、歩み出していきたいと思います。主は、私たちの心を、受け止め、そして導こうとしてくださっています。私たちは、その主イエス・キリストの御言葉に、耳を傾け、主の招きに応えて歩んでいきたいと思います。(笠井元)