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2024.11.24 「開かれた教会を目指して~共に福音にあずかる~」(全文) Ⅰコリントの信徒への手紙9:19-23

1:  わたしたちに出来ること 

今日から、世界バプテスト祈祷週間となります。世界バプテスト祈祷週間は、神様が私たちに与えてくださったイエス・キリストの恵みを世界のすべての人々と分かち合うために、共に祈る時として与えられています。教会では、女性会を中心に献金をしていますが、是非、皆さんには献金と同時に、共に祈ることをお願いしたいと思います。また、そのために是非、祈祷会にも出席して頂ければと思います。

今、日本バプテスト連盟では、インドネシアに、野口日宇満先生、野口佳奈先生を、そして国際ミッション・ボランティアとして、佐々木和之先生をルワンダへと送り出しています。今、世界を見渡すと、多くの場所で争いが起こっています。ロシアとウクライナの戦争、イスラエルによるガザ地区、また中東の戦争と・・・人間が人間を傷つける、その悲しい出来事が続いています。このような暗闇に包まれた世界を見る時に、私たち一人ひとりにできることはとても小さく、何をしたらよいのか、何をしても現実を変えることはできない…と絶望してしまう日々が続いてしまいます。

私たちには、何もできないのでしょうか。そんなことはありません。私たちには「祈る」ことができるのです。「祈る暇があるなら、もっと何か別の運動を」と言われるかもしれませんが、私たちは愛の神様を信じる者です。私たちに出来ることはまず「祈る」ことなのです。祈ることのない教会は、もはや教会とはいえないのです。今日から、私たちは、特に、世界に目を向け、世界のために祈りましょう。戦争の絶えないこの世界に、イエス・キリストの福音が宣べ伝えられ、平和が訪れるように。そして、争いの中に苦しむ一人ひとりのために。戦争の内にあって、何もできず苦しむ子どもたちや女性、そして老人たちに安全が与えられように。家族を戦争に送り出した人々の心に平安が与えられるように。そして実際に戦争を行っている兵士たちが、暴力とその悲しみから解放されるように。そしてまた、その戦争を指導している国家、その支援をしている国々、その政治家たちが、暴力による権威、名誉を求めるのではなく、対話によって、この世に平和を実現する一歩を踏み出すように。私たちは、そのすべての人々のために祈っていきたいと思います。

神様は、違いを持つ者を愛する愛を注いでくださっています。神様は自分とはまったく違う存在である人間となられました。肉体を持ち、時間に囚われ、空間に囚われ、また人間ということで持つ、弱さ、痛みを持ち、人間が作り出す社会の一人となられました。そのようにして、神様は、人間を愛された。自分とは違う存在である、人間を愛して、共に生きる者となってくださったのです。私たちは、この神様から愛を頂いて、違いを持つ者として、共に生きることを教えられています。そして、そのための愛の心を頂いているのです。「この世に平和が訪れるように」「この世に生きる人間、動物、植物、そのほかすべての神様に造られた被造物が守られるように」「神様の愛が広がるように」お祈りしましょう。

 

2:  開かれた教会を目指して

 今日は、私たちの教会の今年度の主題聖句からの説教となります。私たちの今年度の標語は「開かれた教会を目指して」とされています。「開かれた教会を目指して」・・・私たちは何ができるでしょうか。年間主題聖句でもある、今日の聖書の言葉・・・23節ではこのように言います。【福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。】私たちが開かれた教会となるために、私たちは福音を頂いています。教会は単なる喫茶店でも、何かのサークルでもありません。共に福音、イエス・キリストに出会う場所です。神様の愛を分かち合うところなのです。だからこそ、自分と意見が違う人、年齢、性別、人種、国、その他、何が違かったとしても、キリストという土台をもって、共に生きるのです。これが教会です。そして、そのことが神様の教える教会の姿なのです。 

 私たちの教会は「開かれた教会を目指して」いくのです。私たち人間には、弱さがあり、このように、神様の愛を頂いた者として、共に生きることが必要だと知っていても、実際に実現していくことはとても難しいことでもあるのです。しかし、だからこそ、私たちは、その姿を目指し続けていきたいと思います。そして、そのために、祈り続けましょう。そして、そのために神様の愛をいただき続けていきたいと思います。すでに今年度も3分の2が過ぎていますが、残りの3分の1の期間を、この共に福音に与り、開かれた教会、そして開かれた心を持つ者となることを目指していきたいと思います。

 

3:  当時のコリントの教会

 今日はコリントの信徒への手紙第一から学んでいきます。少し、当時のコリントの教会のことをお話しますと・・・コリントという場所は、貿易、商業の要地であり、文化的にも、民族的にも、宗教的にも、多種多様な人々が住んでいました。また商業土地でもあることから、富を求め、いわゆる人生の成功、勝ち組を目指した人々、よく言えば上昇志向のあった人々が多かったとされ、ただそのために、モラル、規律といったものは乱れており、貧富の差も大きかったとされます。このコリントの土地柄からも、色々な人々が、教会に来ていたと考えられ、そのような意味では「開かれた教会」であったとも言えます。ただ、そのために教会では、このコリントの手紙を読むだけでも、分裂、男女関係、偶像礼拝、賜物、献金などについての問題があったことがわかるのです。そのような意味では「色々な人々が来ている教会」でありはしたけれど、実際に「開かれて福音を分かち合っていた教会」であったかと言えば、そうだとは言い切れない教会でした。このコリントの手紙を著者とされるパウロは、このコリントの教会を立ち上げた一人とされています。そのため、人一倍このコリントの教会の事を心配していました。そして、コリントの教会が、様々な問題を抱えながらも、そこから本当の意味で福音に共に与り、「開かれた教会」となることを願っていたのです。

先ほど、コリントは上昇志向の人々が多かったとされ、貧富の差が大きかったと言いましたが、コリントの1章ではこのように記されています。

【兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。 ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。】(Ⅰコリント1:26-28

 コリントの人々は、「知恵ある者」「能力のある者」「家柄のよい者」が多かったわけではなく、むしろ「無学で無力な者」が多かったとされます。しかし、当時のコリントの教会の人々は、自分は強く、知識を持っている者だと考えるようになっていたのです。

 コリントの8章では、「偶像に供えられた肉」について語られていますが、コリントの教会の一部の人々は、偶像に供えられた肉を食べることにおいて、真の神様を信じているならば、それは何の問題もないと考えたのです。このことに対して、パウロは8章8節、9節でこのように言います。【わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。】(Ⅰコリント8:8-9)偶像に供えられた肉を、食べたからといって、何かを失うわけでも、また何かを得るわけでもないのです。だから、一部の人々は、偶像に供えられた肉を食べても問題ないと考えたのです。ただ、その行為を受け入れられない人もいたのです。そして、一部の人が、そのような行為をすることに心を悩ませる人、偶像礼拝へと誘惑されてしまう人もいたということです。実際にコリントの教会では、そのために教会内で争いが起こっていたのです。

 信仰を得て、新しい生き方を受け、自由にされた者が、その知恵、知識を見せびらかすように生き始めた時、それは福音を分かち合う、共に頂くという生き方から離れてしまっていた。つまり「開かれた教会」ではなくなってしまっていたということです。これが当時のコリントの教会の状態でした。このときのコリントの教会は「福音に共に与る」ということからは離れてしまっていたのです。

 

4:  福音に共に与る者となる

 このコリントの教会に向けて、パウロは今日の言葉を送ったのです。パウロはただ言葉を送っただけのわけではないのです。パウロにはコリントの教会の人々を覚える祈りがあったのです。パウロは祈り、コリントの人々を案じて、悩み、この手紙を送ったのです。パウロは、「自分は誰に対しても自由な者であるが、すべての人の奴隷となった」とします。パウロは、すべての人と、福音に共にあずかる者となるために、あらゆる者のようになったのです。福音に共に与る者となる。これがパウロの最大の目的でした。そのためならば、パウロは何でも、どんなことでもしたのです。これこそ「開かれた教会」となるための中心的考えとなるのではないでしょうか。

 パウロは、ユダヤ人に対してはユダヤ人のようになり、律法に支配されている人に対しては律法に支配されているようになり、律法を持たない人に対しては律法を持たない人のようになり、弱い人のためには、弱い人のようになりました。そして【すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。】(Ⅰコリント9:22)と言うのです。これがパウロがコリントの人々、つまり「福音に共に与る」ことから離れてしまった人に送ったメッセージでした。パウロは、すべては「福音のために」と教えるのです。

今日から世界祈祷週間ですが、私たちは、この思い、「福音に共に与る者となる」「福音のために、どのような人のようにでもなっていく」ということを大切にし、祈り続けていきたいと思います。「どのような人のようにでもなる」ということは、ただ、周りを見て、周りと同じようなことをすればよいということではないでしょう。そうではなく、まず神様との縦の関係をしっかりと持ち、神様の愛を土台とした中で、隣の人を心から受け入れていくことなのです。そのようにキリストを土台として、横の関係を大切にしていくことです。「開かれた教会」となるため、私たちはまず、この神様との関係をしっかりと持ち、福音を頂いていきたいと思います。イエス・キリストが、私たちと同じ人間となり、共に生きてくださっているという恵みをいただく。私たちはこの福音の恵みを受けて生きるのです。

 そして、その福音の恵みを頂いた者として生きる時、私たちは、隣の人に目を向けるのです。キリストを土台に、隣人と共に生きる道を歩んでいきたいのです。

先日、日本バプテスト女性連合が発行している『世の光』を読んでいたのですが、・・・そこには、能登半島で被災した人々の中でも、そこにおられる、外国人被災者について記されていました。石川県は外国人集住地域がなく、「外国人過疎地域」とされているそうです。そのため、その中で、外国人被災者への支援を模索しているとのことでした。私は、自分の知り合いもいたことから、能登半島における被災者のことを考えているつもりでしたが、そこに日本人がおり、また外国の方がおられるということは考えてもいませんでした。自分が見えているものの小ささを教えられました。

 「福音のために、どのような人のようにでもなっていく」。私たちは、どのようになればよいのでしょうか。災害に遭っている人々の心を理解するために、何をすればよいのでしょうか。また、その場にあって、国籍が違う人の心をどうすれば理解することができるのでしょうか。私たち自身が隣人と同じになることはできません。私たちにできることは、その人々のことを知り、その心にどのような思いがあるのか、考え、想像するしかないのでしょう。 

 

今、この日本にクリスチャンは1%もいないとされます。つまり、私たちは、キリストを土台として、周りにいる、キリスト者ではない99%の人々のように、その価値観で生きることを理解し、そのうえで、福音に共に与る者となるために、何が出来るかを考えなければならないということです。私たちは隣に、自分とは違う人がいることを覚えて、そのために祈ることはできるのです。そしてそれは、ある意味、どこまでも広げることができると思います。私たちには、自分と違う人に目を向けて、その人々の心を考えて、知り、そのために祈ることが出来るのです。是非、共に祈りましょう。そして、共に祈り合う者として、歩んでいきましょう。(笠井元)