1: すべての人との平和と、聖なる生活を追い求める
14節では「すべての人との平和と、聖なる生活を追い求めなさい」と教えます。この時の読者は迫害や内部分裂の中にあり、苦しんでいたのです。イエス様は【敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい】(マタイ5:44)と教えられました。当時迫害を受け、内部分裂を起こしていた人々にとって、共に平和を求める範囲はどのようなものとなっていたのでしょうか。私たちは、すべての人との平和を持つことを諦めてはいないでしょうか。
「聖なる生活」を送りなさいという言葉は、「善い行いを積み重ねなさい」と教えているのではなく、ただイエス・キリストに繋がり続けることを意味しているのでしょう。
現代聖書注解では、キリスト者の歩みをとにかく完走することを目的としているマラソンのランナーとして喩えています。マラソンを完走することを目的として走る者の姿は、かっこよく、余裕たっぷりな姿ではありません。むしろ疲れて今にも倒れそうな姿です。キリスト者の歩みは、まさにそのようなものだとするのです。様々な困難に出会い、疲れ果てて、もはや途中でドロップアウトしてしまいたくなる。それでもなんとか走り続けることがキリスト者のこの世での歩みなのです。
15節では、「神の恵みから除かれることのないように」と教えます。イエス・キリストの十字架による恵みから除かれる者はいません。性別、年齢、人種、まったく関係ありません。ただ、神の恵みを受け入れず、心を閉ざしていくとき、私たちは「神の恵みから除かれる者」となっていくのです。
聖書では「悔い改め」「方向転換」した者としてザアカイ、パウロなど色々な人がいます。それに対して、ファリサイ派の人々はイエス様に出会っていながらも、その福音を受け入れませんでした。イスカリオテのユダは、イエス・キリストを裏切った罪の重さにさいなまれて自死しました。裏切ったという意味では、ペトロも、他の弟子たちも同じですが、その後、復活のイエス・キリストに出会い、弟子たちは変えられて行きました。
私たちは心を頑なに開かないようになっていないか、気をつけなければなりません。自分では気がついていない間に、いつの間にか心を閉じていることが多くあります。特に、困難に出会うときに、疲れ、苦しみの中にある時は、その中で神様の恵みを受け入れることを拒否してしまっていることがよくあるものなのです。私たちは、意識をもって心を開く必要があるのでしょう。
【苦い根が現れてあなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚れることのないように、気をつけなさい。】(ヘブライ12:15)は申命記29章からの言葉とされています。私たちは、自分が信仰で悩む時、自分だけの問題として悩んでしまうものです。しかし、一人の信仰の揺らぎが、教会全体を傾けていくものです。
【それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。】(Ⅰコリント12:25-27)
教会は、一つの部分、一人が苦しめば、すべての部分、すべての人が共に苦しむのです。当時、読者は、まさに、それぞれが苦難の中、時に、イエス・キリストから心を閉ざすこともあれば、教会から離れてしまう人もいたとされます。著者はその一人の信仰の悩みが、教会全体の悩みであることを教え、教会全体で、一人ひとりを大切にすることを教えているのです。誰一人として離れていいという人はいないのです。
4: エサウが求めたもの
16~17節はエサウの話となります。エサウが長子の権利を譲る話は創世記25:29-34にあります。著者は、エサウが目の前の誘惑に負けてしまった話から、読者が今ある迫害や困難の中、目の前に見える誘惑に負けてしまうことのないようにと教えます。迫害の中での一番の誘惑は、信仰を手放すことによって、危険を回避できる、安全、安心を得ることができることしょう。ただ、それは目の前に見えているだけで、何の根拠もない安心、安全です
エサウは空腹であり、疲れていたため、通常の判断力を失っており、目の前に見える物を求め、見通しのない判断をしてしまったのです。私たちは、疲れた時、困難に向き合い、恐れやプレッシャーに押しつぶされそうな時、自分たちが何を求めるべきなのか気をつけなければならないでしょう。
5: シナイ山からシオン山へ
18節からと22節からを比べて、あなた方はシナイ山に近づいたのではなく、シオンの山に近づいたと教えています。そして、最後に【12:24 新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。】(ヘブライ12:24)とし、自らの血によって、仲介者となってくださったイエス・キリストによる、新しい契約が与えられていることを教えます。
イスラエルの民はシナイ山で十戒を受け取ったのです。シナイ山は神の神聖さを象徴する場所であり畏れが強調されています。その上で、22節では【あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム】(ヘブライ12:22)だと教えるのです。
畏れるべき聖なる方、神様との関係が新しくされたシオンの山に近づいたのだと教えます。 ここでは、場所がどことかではなく、神様との関係の変化について語られているのです。畏れるべき聖き神様と、人間とを、イエス・キリストが自らの血をもって繋いでくださったのです。キリストの血、その贖いによって、私たち人間と神様との関係が新しくされたのです。私たちは、この仲介者イエス・キリストによって、神様をただ畏れる存在としてではなく、畏れと恵みの方として関わることが赦される者とされたのです。