今日からアドベントとなります。アドベントはイエス・キリストの誕生を待ち望む時となります。私たちはイエス・キリストがこの世に来て下さった事を覚え、待ち望みつつ、日々を過ごしていきたいと思います。
1: イエスの言葉を聞く者
今日の箇所で、イエス様は、まず弟子たちに話し始められました。ただ、この時は、静かな部屋の一室でイエス様と弟子たちだけで話していたのではないのです。イエス様と弟子たちの周りには数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになっていたのです。これまでもイエス様の話を聞こうと多くの人々が集まってきていた時はありました。ただ、ここでは「足を踏み合うほど」という特別な表現を使って、そこには集まり切れないほどの人々がいたこと、押し寄せていたことを教えているのです。この表現は、一つには、この後「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい」と言われたところから、そのパン種によって膨れ上がる群衆を現わしており、その膨れ上がった群衆が、いずれ、それぞれが考え、判断し、行動していくことのではなく、「イエスを十字架につけろ」と叫ぶようになっていくことを予見した表現となっているのです。
この時、【イエス様は、まず弟子たちに話し始められた】(ルカ12:1)とありますが、このイエス様の言葉を、周りにいた群衆も聞くことができたでしょう。しかし、群衆にはイエス様の言葉は聞こえたかもしれませんが、その言葉は心には届いていませんでした。イエス様の弟子となるのか、その周りで足を踏み合っている群衆となるかは、このイエス様の言葉に耳を傾ける者となるかどうかということが出来るでしょう。聖書は、まずこのように、自分で判断し行動することができなくなる群衆となるのではなく、イエス様の言葉を聞くという者となること、イエス様の弟子となることを教えているのです。
2: 偽善
イエス様は弟子たちに【「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である。」】(ルカ12:1)と言われました。ファリサイという言葉には「分離した者」という意味がありますが、ファリサイ派の人々は「自分たちは一般的な人々とは違う者である」とした人々でした。ファリサイ派の人々が求めたのは、とにかく徹底して律法を守ることでした。妥協することはなく、細部に至るまで律法を守ることを大切にしたのです。そして、その律法を守り生きることで救いを得ることができると信じて、逆に律法を守らない者は汚れた者、罪人としたのです。ファリサイ派の間違いは、ただ律法を遵守しようとしたことではなく、そのことから、その律法を守らない者を裁いていったことでしょう。自分たちは、そのような者たちとは違う者とし、自分たちは正しい者と傲慢な者となってしまったことです。
これは現在の、あらゆる宗教においても起こりうることです。もちろんキリスト教であっても、その他どのような宗教においても、それぞれが「自分は絶対正しい」とし、他者を裁いていくときに、多くの争いが起こっていくのです。また、それは宗教間だけではなく、あらゆる人間関係においても起こることでしょう。自分の方が優れている。自分の方が正しいとするとき、私たちは間違った道、差別者への道を歩き出していくのでしょう。今、世界を見渡すときに、本当に多くの場所で争いが起こり、多くの人々が血を流し、涙を流しているのです。そして、それがわかっていながらも、この争いは終わりません。そこには人間の欲望やプライドがあり、傲慢さがあり、人を断罪し、裁いていく思いがあります。「自分は正しい」という思いから抜け出せない中、一度進み始めた道を立ち止まるということができなくなっているのです。
ファリサイ派の人々は、自分たちは一般の人々とは「分離した者」と誇り、傲慢になっていました。イエス様はそのようなファリサイ派の人々が行っていることは「偽善」でしかないと教えています。ファリサイ派の人々は、神様から与えられた律法を守ろうとしていたのです。しかしそれは、神様に従うことを、心から喜んで生きていたのではなく、そのことから、自分は正しいとし、他者を裁く者となってしまったのでした。
3: 心と行いの乖離
このような偽善の話を聞く時に、皆さんはどのように思われるでしょうか。「自分は大丈夫」と思われるでしょうか。それとも、ちょっと心が不安になるでしょうか。どちらかと言えば、この話を聞いて、「自分は大丈夫」と思う方は、自分を棚に上げてしまっている人、そのようになりそうな人となっていますので気を付けてください。また、むしろちょっと心が不安になるならば、それはある意味、自分の中にも間違いがあるのだと感じている者として、逆に「偽善」ではない道をどうにか歩こうとしていると言ってもよいかもしれません。
私たち人間は、どこかで心と行いがずれていることがあります。偽善は、心では悪いことを考えているのに、良いことを考えていると思わせる行動をしていることです。つまり、心と行いが一致していないのです。私が読んだ本では、逆に、実際は良いことを考えているのに、行いでは悪いことをしてしまうこともあるとして、それを偽善ではなく、偽悪と言っていました。おもしろいことを言うものだと思いました。心で思っていることと、実際に行っていることの違いは、ただ良い思い、悪い思いで言えることではないと思います。悲しいとか怒りとか、そのような感情を持ちながらも、顔は笑ってしまっていることもあるでしょう。私たち人間とはそのような者なのです。また、確かに、人間の心と行いが完全に一致していたら、それはそれで危険なことでもあるでしょう。心に憎しみが生まれたら、すぐその憎しみをもった行動をしてよいわけではないでしょう。理性をもって、心を落ち着かせていくことも大切です。私たちは弱さを持ち、完全な者ではないけれど、それなりに努力し、隣にいる人と共に生きているのです。
ただ、この心と行いのずれは、特に、社会的圧力や、周りの人々の目が気になればなるほど、大きくなり、そのことから、自分自身が心に大きな傷を受けてしまうことがあります。聖書では、このあとイエス様の弟子、ペトロがイエス様に「決して命を失ったとしても従っていく」と言いながらも、イエス様が捕らえられ、十字架に向かう中、イエス様を三度も「知らない」と言ったという場面があります。この時のペトロはイエス様を裏切りたくて裏切ったというよりも、裏切らないと殺されてしまうという恐怖に捕らえられ、イエス様を「知らない」と言ってしまったのです。 そのような意味では、その圧力によって、ペトロは自分がしたいと思っていたことを行うことが出来なかったのでした。
これが人間の姿なのです。私たちは、自分で思うことを、すべて、そのまま行動に移すことができるほど、強い者でもないですし、またそのまま行動に移してしまったら、むしろ人を傷つけてしまうような思いを持っている。そのように、弱さもあれば、それなりの理性もある。それが人間なのです。
そして、私たち人間はこの自分の弱さに悩むのです。ペトロは、本当はどこまでもイエス様についていきたかった。しかし、死の恐怖から、そのようにすることが出来なかったのです。ペトロはこの自分の弱さを知り、悔いて、涙を流したのです。私たちも、自分が出来ればこうしたいと思っていながらも、実際にはできなかったということがあると思います。それが自分が思っている以上のことが出来れば、自分は凄い者だと思い、そして自分が願っている以下のことしかできなかった場合は、自分を卑下してしまうのではないでしょうか。
4: 神が人となられた
このような弱さを持つ人間が、偽善者となること。それは、自分が強い者、そして自分の行いで正しい者となっていると思っている時であり、そのような考えは、最終的には、自分が神になれる、自分が神であるという思いに繋がっていくのです。それこそファリサイ派の人々は、自分たちが正しい行いをすることで、神に近づこうとしていたと言ってもいいのかもしれません。しかし、人間は、決して神様にはなれないのです。そして、そのような、弱さに悩み、苦しむ人間が、喜び生きることができるようになるために、人間が神となるのではなく、神が人となられた。それが、イエス様がこの世に生まれられた意味なのです。
神様は、この世を愛された。そして私たちのところへと来て下さったのです。それは、私たちの心の内にある、隠しておきたい心にも目を向け、すべてを知っておられるということでもあります。そして、そのうえで、神様は、私たちの心のすべてを受けとめて下さっているのです。私たちは、自分の心の中が、悲しみで満たされていたとしても、その悲しみを誰にも表すことができない時があります。イエス様はその心を知るために、人間となられました。また、私たちの、心が憎しみで満ちていながらも、なんとかその思いをとどめている時、その憎しみの原因となった痛みや悲しみを、イエス様は知り、その痛みに寄り添って下さっているのです。また、もし、心が喜びで溢れていながらも、その思いをどのように表現してよいのか、わからない時に、その喜びを一緒に喜ぶために、イエス様がこの世界に来られたのです。
今は、アドベント、イエス様の誕生を待ち望む時です。私たちは、神が人となり、この世に来られたということを覚えたいと思います。弱く、小さく、時には傲慢になり、人を裁いてしまう者。そのような私たちが、正しい者となり、神に近づき、神とならなければならないのではなく・・・そのような弱さを持つ人間と、神様がなられたのです。私たちが心で何を思い、何をしていようとも、神様からそれを隠すことはできません。そしてそのすべてを神様は受けとめてくださり、その思いを持つ私たちと、共に生きてくださっているのです。
5: 暗闇で言ったことは、明るみで聞かれる
最後に、3節から学んでいきたいと思います。イエス様は【「12:3 だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。」】(ルカ12:3)と教えられました。私たちが隠れて言ったことも、その言葉はいずれ明るみにされ、広められると言います。これはただマイナスな意味だけではなく、むしろ、私たちが知ったこのイエス様が共にいてくださるという恵みは、どれほど小さな声で語ったとしても、その言葉は広げられていくとしても読むことができるのです。私たちが知ったのは、自分は神ではない、また神になる必要もないということ。ただ、神が人となり、この世に来て下さったということです。この神様の恵みを、私たちは語り伝えていきたいと思います。心では、この喜びをもっと大きな声で伝えたいと思いながらも、なかなかそのようにできないこともあります。それでも、私たちは、語り続けていきたいと思います。どれほど小さな声であっても、何も語らないのではなく、語り続けていきたい。その時、その言葉は、いつか明るみに出され、広げられていくのです。ですから、語ることをやめてはいけないのです。神様が私たちを愛し、人となり、共に生きて下さっている。この恵みを共に、語り伝えていきましょう。(笠井元)