1: イエスの言葉を聞く者
イエス様は弟子たちに話し始められました。この時イエス様と弟子たちの周りには数えきれないほどの群衆が集まって、足を踏み合うほどになっていたのです。「足を踏み合うほど」という表現は、いずれ群衆が膨れ上がって「イエスを十字架につけろ」と叫ぶようになっていくことを予見した表現となっています。群衆は弟子たちがイエス様の言葉を聞くのと同じように、イエス様の言葉を聞くことが出来たのです。イエス様の弟子とは、イエス様の言葉に耳を傾ける者なのです。
2: 偽善
ファリサイという言葉は「分離した者」という意味があります。ファリサイ派の人々は、自分たちは一般の人々とは「分離した者」と誇り、傲慢になっていました。イエス様はそのようなファリサイ派の人々が行っていることは「偽善」でしかないと教えたのです。ファリサイ派の人々は、神様から与えられた律法を守ることで、自分が正しいとし、他者を裁く者となってしまったのでした。
3: 心と行いの乖離
人間はどこかで心と行いがずれていることがあります。偽善は、心では悪いことを考えているのに、良いことを考えていると思わせる行動をしていることです。この心と行いのずれは、特に、社会的圧力や、周りの人々の目が気になればなるほど、大きくなり、時に心に大きな傷を受けてしまうことがあります。ペトロはイエス様に「命を失ったとしても従っていく」と言いながらも、イエス様が捕らえられ、十字架に向かう中、イエス様を三度も「知らない」と言いました。ペトロは恐怖からイエス様を「知らない」と言ってしまったのです。ペトロは自分の弱さを知り、悔いて、涙を流したのです。
4: 神が人となられた
偽善者となることは、自分は強い者、正しい者と思っている時であり、その考えは、最終的には、自分が神になれる、自分が神であるという思いに繋がっていくのです。しかし、人間は、決して神様にはなれないのです。弱さに悩み、苦しむ人間が、日々喜び生きることができるために、人間が神となるのではなく、神が人となられたのです。イエス様がこの世に生まれられたのです。
5: 暗闇で言ったことは、明るみで聞かれる
3節では、私たちが隠れて言ったことも、その言葉はいずれ明るみにされ、広められると言います。イエス様が共にいてくださるという恵みは、どれほど小さな声で語ったとしても、その言葉は広げられていくのです。私たちは、神様が私たちを愛し、人となり、共に生きて下さっている恵みを語り続けていきましょう。(笠井元)