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2024.12.8 「魂の回復を与える神の御業」(全文) ルツ記4:13-17

1:  ナオミ(快い)からマラ(苦い)へ

 ルツ記は、ルツ以外には、今日の箇所にも出てきます、ルツの義理の母親となるナオミ、また、ルツの夫ボアズ、この3名が中心的な登場人物となります。今日は、この3人の中のナオミにスポットが当てられていると言えます。そしてこのナオミに女性たちが「【主をたたえよ。主はあなたを見捨てること】(ルツ4:14)はなかった」と言います。この女性たちはナオミの故郷、ベツレヘムの女性たちでした。このナオミとベツレヘムの女性たちのやりとりは、ここで始まったのではありません。ナオミがモアブという地から、ベツレヘムに帰ってきたときにも、ベツレヘムの女性たちはナオミに声を掛けました。

今日は、その箇所、1章の場面の言葉を読んでみたいと思います。【ベツレヘムに着いてみると、町中が二人のことでどよめき、女たちが、ナオミさんではありませんかと声をかけてくると、ナオミは言った。「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。出て行くときは、満たされていたわたしを、主はうつろにして帰らせたのです。なぜ、快い(ナオミ)などと呼ぶのですか。主がわたしを悩ませ、全能者がわたしを不幸に落とされたのに。」】(ルツ1:19-21

これが、ベツレヘムの女性たちと、ナオミの最初のやり取りでした。ナオミがモアブという異邦人の地から帰ってきた時、ナオミは女性たちに向けて「ナオミ(快い)などと呼ばないで欲しい。むしろマラ(苦い)と呼んでください。」と言ったのです。そして続けていったのは、「全能者」と表現していますが、「神様が自分にひどいことをし、不幸に落とした」と、神様に対する恨みとも思える言葉を語りだしたのです。これには、ベツレヘムの女性たちも、驚いたでしょう。

 

ただ、ルツ記を読んだことがある方は、ご存知だと思いますが、ナオミは、それほどに、辛く苦しい人生を送って来たといえるでしょう。少し、このナオミのこれまでを説明しますと、・・・ナオミは、もともと、このベツレヘム出身の女性でした。ルツ記の1章にありますが、ナオミには夫エリメレクがおり、二人の息子として、マフロンとキルヨンという二人の子どもがいたのです。ある時、ユダヤで飢饉が起こったので、家族4人でモアブという地、異邦人の国に移り住んだのでした。このモアブに移り住んでいく中で、夫エリメレクは、家族3人を残して、先に死んでしまいました。それでも、二人の息子は、モアブの女性と結婚し、その結婚相手の一人が、モアブ人の女性ルツでした。その後、10年は、そこで平穏に暮らしていたのですが、10年後、この二人の息子も死んでしまったのです。夫エリメレクが死に、息子二人も死んでしまったことによって、ナオミは一人残されてしまったのです。

当時、男性が先立つことは、働き手を失うこととなり、残されたナオミは生きる力、生きる方法を失ったということを意味しており、まさに生きる希望を完全に失った状態であったと言えるのです。そしてナオミは、モアブの地を去って、故郷のベツレヘムに帰ることにしたのです。この時、二人の嫁、オルパとルツは、ナオミにつき従っていこうとしたのですが、ナオミが何度も説得をし、オルパは別れて故郷に帰っていったのです。ただ、ルツはどうしても離れなかったため、結局、ナオミはルツと一緒にベツレヘムに帰ってきたのです。これが、ナオミがベツレヘムに帰ってきたときの状態でした。このような状態であったナオミは、女性たちに「もはや、ナオミ(快い)などと呼ばないで欲しい。むしろマラ(苦い)と呼んでください。」と言い「主がわたしにひどいことをして、わたしを不幸に落とした」と言ったのです。このように見ますと、このナオミの言葉も、ある意味当然の言葉だと思うのです。ナオミは、夫を失い、息子2人も失ったのです。もはや生きる力を失い、希望を失い、魂が死んだような状態に落とされていたたのです。

 

2:  ルツという存在

このナオミの言葉のように、「全能者がわたしにひどいことをして、わたしを不幸に落とした」という思いを、私たちも感じることがあるのではないでしょうか。今年は、1月1日から、能登半島で大地震が起こり、その後も大雨など災害が続きました。そのような突然の災難に出会わされていくとき、私たちは、神様に「なぜですか」と思うのではないでしょうか。それこそ、2011年に起こった、東日本大震災という災害のときは、日本の一人の少女が、カトリックの法王に「なぜ神様はこのようなことを起こされるのですか」と手紙を送ったと聞いています。わたしの知り合いのクリスチャンは、「神様の存在は信じているけれど、このようなことを起こす神様の愛とは、一体何なのだろうか」と言っていました。この世には、私たち人間には到底理解ができないような悲しく、苦しいことが、たびたび、起こされます。私たちは、このことをどのように受け取ればよいのでしょうか。ナオミが言うように、全能者とされる神様が、私たちを不幸に落としたい、悩ませたいと思い、ひどいことをしているのでしょうか。

 この時、苦しみの中で、ナオミの隣には、ルツがいました。ずっと隣にルツがいたのです。ただ、ベツレヘムに帰ってきたナオミはルツの存在に意味を感じていなかったのです。ルツが隣にいても、それが自分を「ナオミ」『快い』と言わせるものではなく、「マラ」『苦い』と言わせることに変わりはなかったのです。ナオミにとって、ルツが隣にいても、これからの生活の苦しみは変わらず、生きる苦しさ、その絶望は変わりなかったのです。

 しかし、逆に、この時のルツの立場を考えると、それはナオミにとっては大したことではなかったとしても、ルツ自身にとっては大きな決断によるものでした。ルツはモアブ人であり、もともとモアブに住んでおり、そこに来たイスラエルの家族の一人と結婚したのに、その相手は死んでしまったのです。ルツにとっても、本来はこれからどうすればよいのか、苦しい状態に落とされたのです。その中で、ルツはナオミについていくという道を選んだのです。これは、ルツにとってとても厳しい道であったでしょう。自分の一度も行ったこともないユダヤのベツレヘムに行くのです。しかも、そこにいるユダヤの人々は、異邦人とは関わることを嫌っており、自分が受け入れてもらえるかもわからない社会でした。それでも、ルツは、ナオミについていく道を選んだのです。

ここには、どこまでもナオミについていく、ナオミを一人にすることはできないという、ルツの大きな決断がありました。1章16節、17節ではルツはナオミにこのように言いました。【ルツは言った。「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き、お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。あなたの亡くなる所でわたしも死に、そこに葬られたいのです。死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。」】(ルツ1:16-17

 

 

3:  魂の回復

  ナオミの隣にはいのちをかけて共に歩むルツがいました。しかし、ナオミは、その存在を喜ぶことがなかったのです。ここにナオミの心がどれほどに苦しい状態であったのか、見ることができます。すぐ隣に、自分のことを考え、自分と共に生きてくれている人がいる。それでも、そのことを喜びとも、恵みとも受け取ることはなかった。むしろ、自分の目の前にある苦しみによって、生きることを呪い、神様を恨んでいく。自分を大切に思い、祈ってくれている人がいる。しかし、そのことを受け入れられない。そのことに何の意味があるのか・・・それで何か変わるのか・・・自分の苦しみは誰も知ることはできない・・・と悲しんでいく。それほどにナオミの心は傷つき、まさにその魂は痛み、そして枯渇していた。その魂は死んだような状態であったのです。

 皆さんは、自分が祈られているということを考えることがあるでしょうか。そして自分のために祈って欲しいと言うことができるでしょうか。実は、なかなか「自分のために祈って欲しい」と言うことが出来ない方も多いのではないのかと思うのです。私がこの教会に来て、すぐに祈って欲しいと言ってこられた方は、既に、天に召されました、森澤忠義兄でした。森澤さんはいつも、私に、最近はこんなことがあったから、今度はこんなことがあったから・・・とお話をし、祈って欲しい、また時には逆に、「先生のために祈らせてください」とも言ってくださいました。とても嬉しい思い出です。

 私たちは、祈られているということを覚えたいと思うのです。それは、困難の時に、共に生きる人がいるということでもあります。祈られているということを知る時、「自分は一人きりだ」と孤独に陥る時、どれほどの困難にあっても、「自分は一人ではない」「共に生きている人々がいる」という恵みを受け取ることになるのです。

 

この場で、ナオミは、ルツが命をかけて共にいて、歩いていることに気がつくことはできませんでした。ルツの祈りがあることに喜ぶことができなかったのです。孤独に閉じこもり、一人きりで困難の中で、生きる希望を失っていたのです。ナオミの心は完全にふさがれていました。

そして、今日の箇所は、そのナオミの心が変えられた場面、魂が生き返らされていく場面となるのです。この時、あったのは、新しい命の誕生です。この新しい命の誕生という一つの神様の御業に出会う中で、ナオミは変えられていきます。この時、ナオミの心が変えられていったのは、確かにルツが子どもを生んだということになりますが、それは、この世において子どもが生まれないと心は変わらないということではありません。そんなことを言えば、本当の困難に出会ったときには、子どもが生まれることを待つだけになってしまうのです。ここに、起こされたのは、神様の御業です。人間には決して出来ないことを、神様は起こしてくださる。創造主である神様が、私たちの心を新しく創造してくださる。そのことを教えているのです。この命の誕生という出来事は、ある意味、ルツがこれまで共に歩み続けてきたから、ナオミを愛し、命を懸けて歩み続けてきた、そのルツの愛、慈しみがあってこそでもあります。この神様の御業において、ナオミの内に起こされた出来事とは、このルツという存在に出会わされていったということなのです。いつも、どのような時にあっても、自分の隣にいて、慰め、励ましてくれていた人がいた。自分がどれほど自暴自棄になっても、祈り続けてくれている人がいた。その存在に気がつかされたのです。その時に、ナオミは、孤独という苦しみから解放され、その魂は絶望から生き返らされた。連れ戻された。生きる者と変えられたのです。

 

4:  イエス・キリストの誕生

17節にこのようにあります。【近所の婦人たちは、ナオミに子供が生まれたと言って、その子に名前を付け、その子をオベドと名付けた。オベドはエッサイの父、エッサイはダビデの父である。】(ルツ4:17)ここで、このルツの子として、オベドが生まれ、オベドからエッサイが生まれ、そしてエッサイからダビデが生まれたことを教えます。そして、このダビデの子孫として、イエス・キリストはこの世に生まれたのでした。イエス・キリストは、このルツの子孫として、友なき者の友となり、慰め主、励まし主として、魂を生き返らされる者としてこの世に来られたのです。ただ、このルツの働きを、ナオミはそれだけでは気がつきませんでした。そこには神様の御業として、命の誕生という大きな御業があったのです。つまり、どれだけ人間が共に生きる、共に重荷を担おうとしても、それだけではヒューマニズムの延長でしかなく、そこには限界があるのです。そこに神様の御業が起こされた。そのことによって、ナオミは魂の回復を得たのです。そして、神様は、すべての人間のために、私たち一人ひとりのために、イエス・キリストをこの世に送ってくださった。新しい命を創造されたのです。これが、私たちに与えられている、決定的な神の御業なのです。イエス・キリストがこの世に来て下さった。この世に生まれてくださった。この神様の命の御業を通して、私たち人間は、神様ご自身が共にいて下さること、そしてその神様に繋がれた者として、共に生きる兄弟姉妹がいる者とされたのです。

私たちは、今、このイエス・キリストの誕生、クリスマスの時を待ち望みます。この時、私たちは、主イエスが共にいてくださること、そして私たちのために祈ってくださっていること、痛みを共に担ってくださっていることを覚えていきたいと思います。そして同時に、私たちは、共に生きるべき隣人がいるということ、祈り合い、支え合う、兄弟姉妹がいるということにも目を向けていきたいと思うのです。

ヨハネによる福音書11:25で、イエス様はこのように言われました。【『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。』】(ヨハネ11:25)復活。生き返るということ。それは、連れ戻されるということとも言われます。死から命に連れ戻されること。うつろから喜びに、私たちが呼び戻されること、それがイエス・キリストの復活の導きの力によって起こされるのです。

 

5:  誰と共に生きるのか

 

最後に、もう一つ。私たちが誰を隣人として、誰と共に生きるのかを考えたいと思うのです。ルツはモアブ人、つまり異邦人でした。ここから、私たちは、自分たちが誰と共に生きるべきなのか、考えさせられるのです。神様は、人間となられました。本来、人間とは全く違う方。時間を越え、空間を越えておられる方。聖であり、義であり、完全なる愛の方が、人間となられた。それは時間の中に、そして空間の中に来られたことであり、弱く、罪ある者であり、不完全な者と共に生きる者となられたということです。ルツは、モアブ人でありながらも、ナオミというユダヤ人と共に生きたのです。共に生きること。それはどこまでも広げていくべきことなのでしょう。私たちが共に生きるのは、ただ近くにいる、友だちや家族で留めるものではないのです。私たちは今、自分が誰と共に生きるべきなのか、考えていきたいと思います。このクリスマスを待つ中で、共に生きるべき人、また、共に生きて下さっている人を覚え、祈り合い、支え合っていきたいと思います。(笠井元)