1: 神の選び
今日の箇所は、天使ガブリエルがマリアのところに来て、マリアがイエス様を産むことを告げた場面となります。マリアのもとに神様から遣わされたガブリエルがやって来て【「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」】(ルカ1:28)と、突然、何の前触れもなく知らせてきたのです。まず、見ていきたいのは、このとき、なぜ神様はマリアを選ばれたのかということです。ルカによる福音書では、このマリアの前に、バプテスマのヨハネを産むことになることを告げるために、ザカリアとエリサベトのところにも天使がやって来ていました。この二人についてはこのように記されています。【ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。】(ルカ1:5-6)バプテスマのヨハネの父ザカリアと母エリサベトの二人は、「主の掟と定めをすべて守り、非の打ちどころがなかった」のです。この二人は、どれほど素晴らしい人間だったのでしょうか。これが、バプテスマのヨハネの父親と母親です。
それに対して、マリアについての説明は「ナザレというガリラヤの町に住むおとめであり、ダビデ家のヨセフのいいなずけであった」とあります。このマリアの出身である、ガリラヤのナザレは何か特別に選ばれた場所であったわけではありません。ダビデ家のヨセフのいいなずけということは、メシアはダビデの子孫として生まれるということから考えると、意味があるかもしれません。ただ、これはどちらかといえば、いいなずけであるヨセフについてのことであり、マリアが選ばれた直接的な説明とはならないでしょう。また、今日の箇所の後、1章48節のマリアの賛歌では【身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださった】(ルカ1:48)とあるように、マリアは自分自身で、身分の低い者であったと告白しているのです。
マリアはすべての人間の救い主となるイエス・キリストを宿し、産むことになりますが、このマリアにそれほどのことをするだけの何があったのか。「おとめ」と言われているのですから、年齢はまだ16才程度です。そのような少女が何をもって、救い主イエスの母親として選び出されたのでしょうか。その答えは、マリアは何も持っていなかった。それが答えだと思います。それはただ神様の選びであったということです。
そして、今、この神様の選びは、私たち一人一人に向けられてもいるのです。何も持たないマリアが選ばれたように、神様の選びは、何かを持っているとか、何かを持っていないとか、何ができるとか、何ができないといったことによってなされることではないのです。私たちは今、何を持っているでしょうか。この世界は、その人が、どのような能力、知恵や力、名誉、財産、権力…そのようなものをどれだけ持っているかを競い合っています。そして、そこに存在価値を見出そうとしているのです。以前は、良い大学に入って、良い会社に就職をすることが求められていました。今、私の家には受験生が二人いるのですが、塾や学校、先生や周りの人々の反応を見ていると、社会は今も結局のところ何も変わっていないなと思ってしまいます。ただ、今は、良い大学に入っても、良い会社に就職をしても、その会社が、自分を守ってくれるとは言い切れなくなったことから、むしろ何か資格を持ち、そのような能力を生かして、生きていくこと。つまり、自分の身は自分で守ることが必要だとされていますが・・・結局のところは、その方法が変わっただけで、その根本の価値観は何も変わっていないのだなと感じます。人よりも優れた者であることに自分が生きている価値がある。そのように考えるこの競争社会であることには何も変わりはない。そしてその競争に勝つことが出来ない者は「負け組」とされ、その存在すらも否定されていく。それは自分自身でも、「自分が生きている意味はどこにあるのか」と考えてしまうようになる社会なのです。
このような人間に、神様は、そのようなことは全く関係なく、「わたしは、あなたを選び出す。私はあなたに目を向け、あなたを必要としている。この世界のすべての人間の救いの、その光として、あなたはここにいるのだ。」と語ってくださっているのです。神様はただただ、今、生きている私たちに向けて、「私はあなたを選び出す。私はあなたを愛している」と語ってくださっているのです。
2: 恵み
ガブリエルはマリアに【「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」】(ルカ1:28)と告げました。マリアは恵みを頂いたのです。皆さんにとって、恵みとはどのようなものでしょうか。先日、ある本に「良いことと悪いことはいつも半分ずつある」という言葉がありました。「自分は恵まれていないと他者を羨んでいる人は、自分のうちにある、その恵みと苦しみの、苦しみの部分しか見ていない」ということでした。「良いことがあったとして、その裏にはそれなりの苦労があり、悪いことがあったとしても、その裏にはそれなりに素敵なことがある」ということでした。私としては、苦難はそれほど簡単なことではないと思いますが、良いことの裏を見ること、悪いことの裏を見るという視点は大切ではないかと思いました。少し前の祈祷会で、ヘブライ書の12章から「鍛錬」について学びました。その中で、松見先生が「困難がそのまま鍛錬になるのではない。困難が起こった時に、そのことをどのように考え、向き合っていくのが鍛錬となる」と言われました。「なるほど」と思いました。
私たちの人生には、様々な困難が起こります。今年も、能登半島の大地震から始まり、多くの自然災害が起こりました。ロシア、ウクライナの戦争、またイスラエルによるガザ地方での戦闘も続き、その戦闘は広がりつつあります。皆さんにおいても、それぞれ個人的な困難も含め様々な痛み、苦しみが起こってきたのではないでしょうか。また今、困難のど真ん中にいるという方がおられるかもしれません。それらをそのまま、他人が「神様からの鍛錬です」とか「その裏には良いことがありますよ」と簡単に言うことはできないでしょう。ただ、その苦しみ、困難、痛みの中にある本人が、その困難に対して、向き合い、歩み続ける中で、後から振り返った時に、「神様からの鍛錬だった」と言うことができるようになっていくのかもしれません。ただ、これも松見先生が言われていましたが、それは、「他者が、あなたの上に起こっていることは、神様からの鍛錬ですよ」と言うものではないと思います。
そして、ある意味、この「恵み」というものも、同じような部分が多いのではないのではないかと思うのです。私たちは、今生きていることを神様からの恵みと考えることもできるでしょうし、生きていることが苦しい時、それを単純に恵みとは言い切れなくなるでしょう。私たちの生きていること、その環境も、健康も、家族も、仕事も、学校も、さまざまな人間関係も、能力も、財産も、そのすべてにおいて、それは時に、恵みであり、時に困難であると言うことができると思うのです。それらがどのようになったとしても、それが困難になることもあれば、それを恵みとして受け取ることもできるでしょう。
つまり、私たちの恵みも困難も、それは、なんとなく、恵みと思えば恵みとなるといった、まったく土台のないものとなります。すべては、私たち人間の、自分自身の考え方次第という部分があるということです。それに対して、マリアはここで神様からの恵みを頂いた。これは絶対的な恵みです。私たちがどのように思うとしても、恵みであるということです。そして、それは、その人生の根底にある、生き方、価値観、その物事に対する向き合い方の根底に、イエス・キリストが来て下さったということを意味しているのです。神様が与えて下さったのは、あらゆる事柄を、恵みとして受け取る理由、その土台として、その人生の根底にイエス・キリストが来られたということを教えているのです。それは【「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」】(ルカ1:28)とあるように、主が共におられるということです。私たちの人生は、神様に必要とされ、そしてその命は、神様が共に生きて下さっている命なのです。私たちは、ここに恵みを見出すのです。
3: 戸惑い
このガブリエルの言葉に、マリアは戸惑い、何の挨拶かと考え込んだのです。ここでの「戸惑い」という言葉は、別の聖書では、「心を乱された」という訳でも表されていますが、とても大きな不安に襲われたという意味になります。バプテスマのヨハネが生まれることを告げられたザカリアは、【ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。】(ルカ1:12)とありますように、「不安になり、恐怖した」のです。このマリアの戸惑いは、このザカリアの不安という言葉をもっと強くした言葉とされます。つまり、マリアは不安で不安で、いてもたってもいられなかった、心乱されて、どうすることも出来なくなってしまったと言ってもよいでしょう。マリアは、「主があなたと共におられる」と言われても、それをそのまま受け入れることはできませんでした。そのようなマリアに対して30節から天使が語ります。【「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」】(ルカ1:30-33)この天使の言葉に対して、マリアは「どうして、そのようなことがありえましょうか」と答えました。この状況において、どうしてそのようなことがあり得るだろうか。どうして、そのようなことが恵みとなるのかと感じたのでしょう。
私たちは、何が起こった時に、それを恵みとして受け入れていくことができるでしょうか。宝くじが当たるなど、財産を得た時、それを恵みとして受け入れるのでしょうか。それとも、大きな病気が見つかったり、死に出会っていく時でしょうか。先ほどからの話で言えば、それは、イエス・キリストを土台として向き合うことが出来れば、どちらでも、恵みとなるということです。しかし、この時のマリアは、そのように、簡単には、受け入れることはできませんでした。突然、天使がやって来て、「あなたは子どもを身ごもる、救い主を産むことになる」「主があなたと共におられる」と言われて、それをマリアは、そのまま恵みとして受け入れるのではなく、大きな不安に襲われ、「どうして、そんなことがあるだとうか」と戸惑ったのです。このマリアの戸惑う姿は、私たち人間の当然の姿ではないでしょうか。私たちは、この世、この社会の中で、戸惑って生きている。大きな不安の中に生きているのです。この社会はイエス・キリストを必要としません。この世は、財産、名誉といったことが得られることを恵みとし、「すべてはあなた次第」と、恵みを得るのも、苦しむのも、自分の能力や運次第。また、自分自身の捉え方次第。失敗したら、あなたの存在に意味はないと教え続けます。そのような中で、突然、「神様があなたを愛しており、共にいてくださっている」という言葉を受けても、そこには戸惑いしか生まれないのです。
4: 聖霊を送りイエスをもって自らを差し出された神
この戸惑うマリアに、天使ガブリエルはこのように言いました。【「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」】(ルカ1:35-37)「神にできないことは何一つない」。全知全能なる神様だということです。神様は何でもできる。それこそ空も飛べれば、病気も治せる。死んだ人だって生き返すことができると思うかもしれません。ただ、ここで、神様がなされたことは、そのようなスーパーマンや超能力者のようなことではありません。神様は聖霊を送り、マリアを包み込む力を送ってくださったのです。神様は、マリアに「聖霊があなたに降る」と言いました。そしてそこにイエスが生まれるのです。これは三位一体の神様が、マリアのところに自らを差し出されたということです。神様は、戸惑い、不安に生きる私たちのところに、自らを差し出されたのです。その最大の出来事が、イエスがこの世に来られたということです。神様は御子イエスをこの世に送られた。そして、このイエスを通して、自らがこの世界に捕らえられる者となったのです。神様が、この世に、私たち一人ひとりに、自らを差し出された。これがイエス・キリストの誕生、クリスマスの出来事です。
この世に生きる中、戸惑いと不安に包まれている私たちの内に、神様はまさに、共に生きる者として、来て下さった。私たちが困難に出会う時、そこに神様がおられるのです。私たちが苦しむとき、そこに神様がいてくださるのです。そして共に苦しみを受けて、共に生きて下さっている。神様は神様でありながらも、自らを差し出し、人間となり、私たちの恵みの土台となってくださったのです。この神様の命を、私たちが受け取っていく時、ここに恵みが始まっていくのです。
5: お言葉どおり、この身になりますように
聖霊がマリアに降った。つまり、神様がその命を懸けて、自らのうちに来て下ったのです。この言葉を受けたマリアは【「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」】(ルカ1:38)と答えたのです。マリアは、神様に出会っていきました。そして変えられていきました。神様が自分を愛してくださっているという恵みが事実であり、変わらない神様の愛に包まれているということを知ったのです。神様が、自らを差し出して愛してくださった。その神様の恵みを信じて、今度はマリアが自らを差し出す決心をしたのです。これがマリアの信仰です。
神様はマリアを選び、マリアを求め、マリアに命を差し出され、聖霊として降り、イエスとしてマリアのところに来られたのです。この恵みは、今、他のどこでもない、私たち一人一人に向けられています。私の中に、そしてあなたの中に、神様は自らを差し出し、共に生きる者となられたのです。私たちはこの神様の御業にどのように答えることができるでしょうか。日々、困難や苦しみの中にあって、戸惑い、生きる中で、私たちは、この自らの命を私たちに向けて差し出された神の愛を土台として生きることができるでしょうか。神様の言葉を信頼し、生きることができるでしょうか。
今は、アドベントの時です。それは、このイエス・キリストがこの世界に生まれられたことを待つ時です。今この時、私たちは、神が人となり、命を差し出されたことを、覚えつつ、自分が何を土台として生きるのか、考えていきたいと思います。
マリアは【「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」】(ルカ1:38)と言いました。それは、命を差し出された神様にまっすぐ向き合い、自らの命を差し出した姿です。私たちも、このマリアの信仰に連なる者として、歩み出したいと思います。(笠井元)